第1982回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】

第1981話 甲申事変【こうしんじへん】慶應義塾 福沢諭吉先生の決断の事。


                        2017年11月16日木曜日の投稿です。


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                      【  当時の慶應義塾 】


  みなさんも ある日、突然、 朝鮮半島の9人の若い人達が、けが人を

かかえて、自宅の玄関にやってきたとしたら、 どうされますか、 迷惑と称して、

追い払うか、 どこかの誰かの名前を言って、 そちらに転科して、よその家に

行かせるのか、 または、いろんなケースが想定されますが、 明治17年12月

の寒い日に、 当時の東京三田の慶應義塾に、朝鮮独立党の大日本国への

亡命希望者の9名が、けが人を担いで訪れたと言われています。



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           【 武力決起して 失敗し、逃走した 朝鮮独立党のメンバー 】



  朝鮮半島の歴史研究家は、「 慶應義塾福沢諭吉が、井上角五郎を操って

 朝鮮独立党や、高知県の 土佐自由党の壮士を煽動し、 朝鮮半島を征服し、

 自分の理想の国を造ろうとしていた、大日本帝国の 帝国主義の先駆けであった

 と多いに批判するその理由として、 朴 泳孝、 金 玉均らの逃走を手引きし、

 後にも利用しようとしていた。」との、悪評の本を作り、 本から本が大量に

 印刷され、 それを読んだり見たりした人達が、自分でよく調べずに、「日帝

 福沢 諭吉。」 と、 悪い印象を持っているようです。



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     【 東京 三田の福沢家  慶應義塾の隣に当時建っていた。】



  いろんな人の証言、文章を研究して見ると、当時 何も知らないうちに、

 朴泳孝氏らを 自宅に招き入れてしまったというのが 真相のようです。

 つまり、福沢諭吉先生は、 井上角五郎先生の勤務する 博文局が焼けてし

 まった事や、 自分が苦労して 寄付を集めて 築地活版印刷所の凸版印刷

 や、 朝鮮文字の特注の活字など、自由民権を広めるための新聞を印刷する

 非常に高価な機械や機材を 朝鮮半島に寄付する形で朝鮮政府に送ったの

 ですが、決起の争乱で火災にあい、博文局が焼けて灰となった事も知らずに、 

 負傷して訪れた、 大朝鮮国の留学生達が、訪ねて来て、 「 なにはともあれ、 

 だいじょうぶか、 しっかりしろ、さぁさぁーーー。」 と、自宅に招き入れて、事実

 を詳しく知ったのは、後の事であったというのが 調査の結論です。


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                  【  当時の 福沢 諭吉 先生】


   この行為で、後に、日本の明治政府の外務省や、内務省から、厳しい抗議を

 受ける事になっていったようです。

 朝鮮半島で、武力で反乱を起こし、当時の朝鮮政府の要人達を次々処刑し、政府

 を新たに造って、3日で崩壊、 日本に逃走してきた 朝鮮半島の罪人を 匿ったと

 いうことになっていったようです。

 日本の外務省からすると、 一学者が、他国の政治に内政干渉するような

 思想を唱え、 多くの人を惑わし、 多くの災いが発生していった責任は重大

 であるという考えであったそうです。



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  当時の史実を確認すると、明治17年、明治18年、明治19年と、日本全国で

武力によって 明治政府を倒して、 自由民権の国を造ろうという そういう人達が

反乱というか、一揆というか、 テロ行為に走っていったのです。

  秋田事件、 福島事件、高田事件、群馬事件、岡山県の 山陽自由党事件、

 秩父事件 名古屋事件 静岡事件、 大阪自由党事件など、 複数の事件が起きて

いき、その活動資金を得るために、 強盗や、爆弾を製造したり、 いろんな騒動に

発展していったようです。

  これらの原因は、 慶應義塾ではなく、 板垣退助 や 後藤象二郎らの土佐

自由党に原因があるようです。

しかし、当時の明治政府から見ると、 その思想の根本は、 慶應義塾の福沢

諭吉先生にあると 考えていた様です。


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 こうして、朝鮮独立党の9名は、12月に 東京三田の福沢諭吉先生宅に転がり

込み、年が変わって、1885年1月には、東京市内の浅草寺の境内を経て、

慶応一門が世話をした、 兵庫県神戸港の借家に移住し、 朴 泳孝 氏は、

山崎 永春と名乗り、 金 玉均氏は、岩田 周作 と名乗り、 神戸から、朝鮮

半島に自分達が戻れるように、いろんな事を行って行くのです。

そして、 それをよく思わない、 朝鮮半島の清国と閔氏の一派は、日本の神戸

に暗殺部隊を潜入させ、 日本の国内を騒がせていくことになって行くのです。

 彼等の大きな過ちというのは、 自分達の目的のためなら手段を問わないと

言う考え方が根本にあって、 周囲の人、 家族であるとか、親戚の人であるとか

また、 周辺の近所の他人様とか、 まったく 考えていなかったことです。



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   結果、 彼等だけで武装決起して、知らない間に、騒動に巻き込まれ、多くの

 人を不幸にしていった、 そして、 農民の人や 一般の町の市民も、彼等の

 行動や、考えがよくわからず、同調する人が少なく、 民の支持や支援が皆無

 であった事。  こう言う事が、 計画の準備が、一方的な考えの基に計画され、

 清国の軍勢や、 大日本国の軍勢が、彼等の考えたように動かず、計画が

 思う様に行かなかった。

  それ故、 わずか3日という短い間の甲申事変となっていったようです。 

  続きを毎日少しずつ勉強して行きましょう。



 【 明日に続く。】