第1983回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】

第1982話 甲申事変【こうしんじへん】沸騰していった日本の世論の事。


                     2017年11月17日金曜日の投稿です。




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              【 甲申事変の舞台となった、 昌徳宮 】



  【前話からの続き。】


    ちょうど、朝鮮独立党の9名が東京市の三田の福沢諭吉先生宅に転がり

 こんだ当時、 時を同じくして、 朝鮮の首都、漢城で日本人が清国人によって

 大量虐殺されたという情報が、当時の新聞によって広がって行ったのです。

 当時の新聞というのは、 現地に取材に行ったのではなく、 人から聞いた

 話や、 他の新聞の記事から、 新聞を作っていったのです。

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   その内容とは、 日本人が36人清国人によって殺害されたという内容で

それ前後の 甲申事変の武装決起などを 説明する記事は無かったのです。

調査してみると、 高知県の 自由新聞という 新聞社が、土佐自由党関係者

のお話しと称して 記事にして、 それが拡散していったようです。

 その後、 福沢諭吉先生のところに転がり込んだ、 朝鮮独立党のメンバーの

一方的なお話しを、慶應義塾の 時事新報 という新聞が掲載し、清国人の暴挙

を批判する記事を複数回載せて、 その記事が、 いろんな新聞社にコピーされ、

拡散していったというのが当時の実情だったようです。



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  これらの新聞を読んだ人は、記事を疑わず、 そのまま信じ込み、{清国を

武力討伐すべし。」 「仇討ちを行うべし。」 と言う 人達が増えていったのです。

そして、 高知県では、 自由党を中心に、義勇兵の募集が始まり、朝鮮征伐

を土佐 一国だけで行おうという そういう人達が騒動を起こしていったのです。



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  これらの 騒動の中、自由党の女弁士などが、大阪で熱弁を語り、「自由民権

 は、 武力によってのみなされる。」 などと、演説していったと言われています。




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  これらの報告を 外務省や、内務省から受けた、伊藤博文公は、早い内に、

 国民にもよくわかるように事態を収拾し、 そして、大切な事は、戦争に発展する

 ような事は避け、 清国と、大朝鮮国との関係を以前のように修復し、 そして尚

 かつ、 大日本国の 体面が保てる損害賠償を 大朝鮮国に請求し、約束を取り

 付けるべきだとの考えに至ったそうです。



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         【  時の 外務卿【がいむきょう 外務大臣相当】 井上 馨 公】


 ところが、 外務省の 外務卿 井上 馨 公は、 その考えに基本的に同調を

したものの、実際のお話として、 2年前の 大朝鮮国と条約を結んで、 損害賠償

を支払う約束を行った 賠償金さえ 大朝鮮国からの支払いが滞っていて、 仮に、

新しい損害賠償を請求し、 それを外務省が条約にしても、 大朝鮮国からの賠償

金の支払いを受けるのは難しいと、申立てたそうです。

 そして、 とにかく 放置すると 大変な事になるので、 外務卿の 井上 馨 公

が全権大使となって、 漢城を訪問し、 事態を収拾し、 清国と、大朝鮮国との

国交を 元に戻す交渉を始める事になっていったそうです。



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  その手始めとして、 清国と閔氏の軍勢をあわせると、2千程度の兵力が

 漢城周辺に展開しているとの情報から、 広島鎮台と福岡鎮台から 陸軍部隊

 兵力2千人の兵力と、 日本海軍の艦艇を3隻派遣し、 まずは相手と 同等の

 兵力を現地において、 相手を牽制しながら 外交交渉を行う事になっていった

 そうです。


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  こうして、日本陸海軍は、2年前に続いて、朝鮮半島に外務省の外交使節団の

 護衛と言う事で派遣されていったのです。

 これは、あくまでも 外交使節団の護衛で、侵略ではなかったのですか、 同時の

 外交交渉は、 相手と 同等の軍事力を持って 交渉しないと、話だけでは何も

 決まらず、交渉相手にも、話だけでは相手にされなかったそうです。



  【 明日に続く。】