第1992回 昭和の伝道師 【戦中、戦後のパイロットの物語】

第1991話 甲申事変【こうしんじへん】 慶應義塾門下の裏外交の事。


                         2017年11月26日日曜日の投稿です。




    【 前話の続きから。】



  
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            【 大朝鮮国の首都 漢城   現在の ソウル 】



   日本の内地で、「 朝鮮と清国を武力討伐を行うべし。」 と、 土佐自由党

 機関誌 自由新聞や、 慶應義塾の機関誌 時事新報など、一方的な報道が

 続いていた当時、 命をかけて 朝鮮公使 竹添 進一郎 公使が、抗議文を

 漢城の昌徳宮に出向いて手渡し、清国の袁世凱将軍らともめていた頃、実は

 仁川港を本陣として構える、井上 馨 外務卿の内意を受けて、 命をかけて

 清国の占領下の漢城に潜入し、 裏の外交を行い、興亜論を説いていった

 井上 角五郎 先生の行動があって、 事態が好転していったと言われてい

 ます。



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  【 統理衛門 博文局主任 井上 角五郎先生 広島県福山市誠之館出身】



  慶應義塾の興亜論とは、 東アジア全体の発展のことを考えて、視野を広く

もって、一国だけの利害で動かず、 周辺国の立場を考えて、 東アジアの国々が

手を取り合い、お互いが発展していかなければならないとする、 福沢 諭吉先生

の考えた東アジア平和発展の思想でした。

 1884年 明治17年12月4日から5日にかけて、慶應義塾門下の朝鮮独立

党のメンバーなどが 反乱を起こし、 当時の大朝鮮国の大臣らを6名殺害し、

そのメンバーは、1ヶ月間に大きく替わっていっていたのです。



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             【  統理衛門 博文局 総裁  金 允植 氏】


   井上 角五郎先生は、井上 馨 外務卿の指示で、 金 允植氏に面会し、

 「この朝鮮半島で、 清国や大日本国が、勝手に戦争を始めて、 その先を

 考えると、 朝鮮の民が戦争に巻き込まれ、国土が荒廃していく事は避けなけ

 ればならない。」と、 平和と和平を説き、 それに同調してくれた、 金 允植氏

 は、当時の 政府要人に次々 話を通していってくれたそうです。

 つまり、朝鮮半島での 和平が なによりも大切と、話を行っていったのです。



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                      【 魚 允中 氏】




  当初、 反乱を幇助していた 大日本国の信用がならない 日本人という

 イメージがあったようですが、 福山藩 藩校 誠之館で身につけた、漢文の

 知識を生かして、 和平を説いて周り、 だんだん、警戒心を持ちながらも、

 興亜の為に、命をかけて漢城に出向いてきた 井上 角五郎先生のお話に

 心を動かされていったのです。



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                       【 金 晩植 氏 】


   当時の 朝鮮の政府の新しい大臣達は、 第1とすべきは 王の身分の

  安泰であり、 それには 日本と清国が朝鮮半島で戦争を行い、 多くの人が

  戦争に巻き込まれ、 両者のどちらが勝利しても、その先、 戦争に勝利した

  国が 朝鮮半島を武力で占領し、 朝鮮国王を放逐し、 自らの領土にする

  に違いないと思い至り、 井上 角五郎先生の話しに同調し、 朝鮮の現政権

  が前面に出て、 和平を推進すべきとの意見が多数となって行ったそうです。



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                【 左議政 【副総理相当】  金 弘集 氏 】


 このような、意見が 大朝鮮国の政権内部で 主論となって行き、井上 角五郎

先生は、金 允植 総裁を通じて、 左議政 金 弘集氏と、 井上 馨 外務卿の

和平推進会談の 下話を根回ししていったと言われています。




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               【   大朝鮮国 漢城の 昌徳宮 】




 1885年 明治18年1月3日 新春の漢城で、 「 清国、大朝鮮国の政府と

大日本国は、意見の相違をとりあえず棚上げし、 後日 個別に協議して 解決を

行う事を約束し、 なによりも 興亜の為、 和平に努める。このことがなによりも

清 朝 日の三国の将来のためになり、 三カ国は連帯して、西洋の植民地主義

に対抗し、お互いが思いやり、供に発展していかなければならない。」 との

 福沢諭吉先生 の理論を説いて、 膝を交えて お話しし、 戦争を回避する

ことで、 下話が進んで行ったのです。

 学問を平和のために生かして行く、 命を捨てて、 戦争状態の漢城

挺進し、 身を呈して、和平に奔走していった 日本人 井上角五郎先生を

 清国の人も、 大朝鮮国の人も、 殺したりはせず、 そのお話に聞き入り

話し合いをしようとした その背後には、 日本陸海軍の軍事力の威圧があって

成り立っていったのです。


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  清国は フランスに敗退し、台湾に上陸され戦闘中で、さらに戦火を朝鮮半島

に広げ、国力を消耗することを避けたかった。

 大朝鮮国の政府は、 清国と日本が朝鮮半島で勝手に戦争を始めるのを防ぎ

 たかった。

 現実に、日本陸海軍が仁川を占拠しており、 さらに事態が悪化すると 釜山から

 軍勢が上陸し、 朝鮮半島が焼け野原となるのを防ぎたかった。

 どうしようかと考えているときに、 井上 角五郎先生 がやって来た、 渡りに船

 というところだったようです。




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   今もそうですが 「外交とは、相手の国と 当方の国の国力が同等で、戦火を

 交えると 被害が発生するので 話し合いをする。」 と言うのが基本であったの

 です。

  力のない個人や、国家が、 それが正しい事でも、 何を口で訴えても誰も

 相手にせず、 軍事力で征服されていく、 そして占領され、人権侵害、人では

 なく、国民が 支配者に 物 として扱われ、 殺害されても文句も言えない

 立場になっていった時代であり、 自分達で 自分達の国、 つまり領土を

 防衛できない国家は、消えていく時代であったのです。

 大朝鮮国は、自分で 自分の国を保てず、 閔妃 と閔氏が 外国の軍隊を

 利用して 自分達の立場を守ろうとした結果、 初めは利用していたのが、

 壬午事変の後、 清国人に支配されるようになって行った、これは歴史の

 大きな教訓です。


  【 明日に続く。】