第1999回 昭和の伝道師【 戦中、戦後のパイロットの物語 】

第1998話 甲申事変【こうしんじへん】 駐清特命全権公使 榎本 武揚公の事。


                          2017年12月3日日曜日の投稿です。






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  1885年 明治18年1月ころ、清帝国の首都 北京 は、有名な西太后

西太后に組して、自身の権力を保とうとする 軍閥の連合体が支配する恐怖

政治を行っていた時代と言われていて、 当時、首都の北京には、日本公使館



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と言う、今の 日本大使館のような建物が造られ、 大日本国と、清帝国の連絡

事務所のような事を行っていたのです。



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                     【 当時の日本公使館 】




   その北京の日本公使館の責任者が、旧幕府海軍副総裁の 榎本 武揚さん

  でした。

  3年前まで、 海軍卿 【海軍大臣相当】だった大臣クラスの人が、北京公使

  というと左遷に近い転勤であったそうです。


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       【 幕府海軍副総裁 榎本 和泉守 武揚 えのもと たけあき 】


  榎本 武揚 北京公使と言う人を簡単に紹介すると、 幕臣で 幕府海軍の

  艦隊司令長官のような立場の人で、オランダに留学し、外国通の開化派の

  人物でした。


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    幕府艦隊を率いて、 函館の五稜郭で、戦争を始めて、その後降伏、



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     五稜郭は落城し、 死罪となっていたそうですが、 時の新政府軍の

 実力者であった 黒田 清隆公が、 殺すには忍びない人物と助命の為、

 坊主頭になって、各方面に頭を下げて歩き、 命が助かったそうです。



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 そう言う経緯から、 その後、 薩摩藩の黒田 清隆公の手伝いをするようになり、

8年後の明治の13年頃には、 海軍大臣に相当する 海軍卿に就任し、幕臣

中では 異例の出世をしていったのですが、 旧薩摩藩の海軍関係者の派閥と

大ケンカをして、 海軍卿を辞任し、 その後、皇居造営御用掛の副総裁の職に


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  ついて皇居内に 洋風の御殿を造営する責任者を務めていたそうです。

 その後、 明治15年に北京公使に赴任して、例の 朝鮮公使 竹添 進一郎

 朝鮮公使は、 彼の下で書記官をしていたという、 そういう関係であったそう

 です。
  


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                  【 北京公使  榎本 武揚 公 】


  その 榎本 武揚 北京公使に対して、外務省から、朝鮮半島の甲申事変の

大日本国として、清国に損害賠償を請求する会談の下話を行うように、命令が

暗号電信で届き、 清国政府と損害賠償の交渉を行う事になっていったようです。

当時の清帝国は、恐ろしい恐怖政治のまっただ中、 そんな政府に、賠償金を

請求することは、死を覚悟して行わなければならない 大変な仕事でありました。


 【 明日に続く。】