第2007回 昭和の伝道師【 戦中、戦後のパイロットの物語】

第2006話 甲申事変【こうしんし゜へん】 榎本 武揚公の天津到着の事。






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   1885年 明治18年の4月15日、 日本の長崎の港から、イギリス極東

艦隊のアガメムノン、 ペガサス、 ファイアブライドなどの艦船が、朝鮮半島

南端の巨文島などを 武力制圧して占拠し、 この事件の事を 巨文島事件

と呼びます。


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  天津で、清帝国と、大日本国の全権代表 伊藤 博文 筆頭参議らは、この

 事実のみを知り、 事件の背景がわからず、多いに驚いていた当時、北京から



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   【 交渉の直前に死去した イギリス北京公使 ハリースミス パークス公使】





立ち戻ってきた、 北京公使の榎本 武揚公使から、 「 実は、 お話しの、

英国の北京公使 パークス殿は、さる3月22日に病にて、お亡くなりになって

いました。」 と報告を受けたそうです。



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          【 大日本国 全権代表 伊藤 博文 筆頭参議 宮内卿 】


   古い知り合いの パークス公使に この度の清国との損害賠償交渉の仲立

ちをしてもらおうと考えていた、伊藤 博文 公らは、 体の力が抜け落ちたように

椅子に座り込み、 「 はーーーーぁ ついとらんのう。」 と ため息をついたと

言われています。

 伊藤 博文 公は、「 ほんでーー、イギリス公使館の方はどうじゃったんか。」

と聞き、 榎本公使から顛末を聞くに及び、「 こりゃーーでぶらで帰国じゃのう。」

「 清国と戦争をする身代も無し、 泣き寝入りと言うところか、仁川の兵力も

早期に撤退してのうーーー実は、巨文島にイギリスが攻め込んでーー。」と

榎本 公使に話をしたそうです。

 
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          【 北京公使館 榎本 武揚 公使  元 幕府海軍副総裁 】


  当時その話を聞いて驚いた 榎本 武揚 公使は、 しばらく沈黙した後、

 「打って出ましょう。」と、突然、 伊藤 博文公 や 西郷 従道公らの前で言い

放ち、 伊藤 博文公が、「 今、ここに至って、 どうする言うんか。」 と、聞くと、

 榎本公使は、「 これから すぐに 潮目が変わらぬうちに、 清国の李鴻章

 宿舎に出向いて、 もし、 朝鮮半島からの清日の同時撤退を認めないので

 あれば、実力を持って 撤退をさせると言い放つのです。」 と言うと。 



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 聞いていた 伊藤 博文公 は、目を大きく広げて 驚いて、「 榎本君、

 ぬしは、 本当に戦【 いくさ 】になったら どうするつもりなんか。」 と問うと、 

 榎本 武揚 公使は、「 清国とは、絶対に戦【いくさ】にはなりません。」 と言う

 懐疑的であった、 伊藤 博文 公が判断に迷っていたところ、 西郷 従道公

 が、 「やってみる価値は、充分にありもんす、 伊藤どん。」 と 発言すると、

 しぶしぶ 伊藤 博文 公は この申し入れを了承し、 榎本 武揚 北京公使

 が 天津の 清国側の宿舎に出向いて、 最終調整に出向くことになって行った

 ようです。


 【 明日に続く。】