第2008回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】
第2007話 甲申事変【こうしんじへん】 天津条約前夜交渉の事。
2017年12月12日火曜日の投稿です。
【 前話の続きから。】
1885年 明治18年の4月、 清帝国の天津港での 甲申事変和平協議は、
5回にも及び、清国側が大日本国の申立をすべて否定し、 逆に損害を申立て、
日本側の要求をすべて突っぱねた形となって、 交渉は決裂したまま、平行線を
たどっていたのです。
ところが、北京で、大日本国の榎本 武揚公使が、英国の北京公使館で英国
と密談に及んでいたという情報の数日後、 朝鮮半島の 巨文島諸島に英国東洋
艦隊が武力侵攻し、 天津にあった、 北洋大臣 李鴻章らは、 フランスとイギリス
と大日本国が通じているのではないかと疑いを持ったようです。
そして、彼がロシアに滞在していたので、 ロシア政府とバイブを持っていて、
ロシアとも 横でつながっていて、 フランスなどとも連絡を取っていると疑って
いたそうです。
【 イギリス海軍 東洋艦隊が占拠した 巨文島 】
そんな時に、 大日本国側の 噂の当事者 榎本 武揚 公が突如、清国側の
全権代表 李鴻章を訪問し、 談判に及んだと言われています。
【 北京公使 榎本 武揚 公使 元 幕府海軍副総裁 】
その談判の内容については、 現在、知る人がなく、不明な部分となっていて、
謎が多いのですが、 清国側の 妥協できる部分はないのか、あるのか、 この
部分について、話し合いを行い、 1つだけでも、 大日本国側の面目が立つような
合意点が得られないか、 そして、 このまま放置すると、必ず いずれ 武力衝突が
古より、朝鮮人の国であって、 他民族が干渉し、 外交、行政、司法を 奪うこと
はいかがなものかと、申し入れを行ったようです。
貴国が、指図がましい事を行う立場にはない。」 と言い放つ人もいたそうです。
その時に、「 もし、この度の和平協議がまとまらなければ、 次回の朝鮮半島
の協議は、フランス、イギリス、ロシア、大日本国 とのお話しになると思われ、
次は、半島をそれぞれの国に割譲することになると思われそうろう。」 と言い放
ち、 清国側交渉団を 一喝したと言われています。
だまって しばらく考えていた 北洋大臣 李鴻章は、西洋諸国が攻め寄せ
朝鮮半島をバラパラにするより、属国のまま、中立国にしていたほうが得策と
考えたのか、榎本公使に対して、 「次回の会談までに、両国の軍勢の撤退
とその後の事について新たな提案を行いたい、少し時間がほしい。」と、回答
したと言われています。
こうして、 まったく膠着状態のまま、 平行線をたどっていた和平協議は、
イギリスの武力行使が、 清国に衝撃を与え、 イギリスや、ロシアや、フランス
や、大日本国が攻め寄せる前に、 清国に出来るだけ有利な条件で和平を
結んで、 表面上、 朝鮮人の国家を存続させて、 属国として 清国が操り、
影響力を保つには、 日本人の軍隊を外交で追い払おうという戦術に変化
していったようです。
もし、清国が朝鮮半島から撤退しても、天津の港から海路、朝鮮の
仁川まで1日程度の距離、 いつでも 派兵は可能で、 関東州から
陸路の派兵も3日程度の距離であって、 この際、撤退して、 日本側にも
撤退させて、 清国人の官吏は、 朝鮮に残って、 影響力を温存させる
という方向に傾いて行ったようです。
榎本 武揚 公使は、すべてを取り決めず、8割がた 話をまとめて、
最終交渉は、伊藤 博文 公 らに話を持ち帰ったようです。
それは、 どういうことかというと、 誰のためでもなく、 自分の為であって
自分がすべてまとめてしまうと、 伊藤 公や、 西郷 公の立場が無くなって
しまうので、 最後の2割 は、未決のまま、話を持ち帰り、 最終的には、
全権代表の 伊藤 博文 筆頭参議が新たな協議を清国側と行い決定する
事になっていったと言われています。
【 明日に続く。】