第2009回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語 】
第2008話 甲申事変【こうしんじへん】 清 日 の6回目の和平交渉の事。
2017年12月13日水曜日の投稿です。
【 前話からの続きより。】
1885年 明治18年 4月16日、 北京公使 榎本 武揚公使が、清国の
全権代表 李鴻章【 りこうしょう 】北洋大臣らと、交渉に及び、条件付きで、
そして、清国の顔もたてて、 軍隊のみの撤退で、朝鮮半島に派遣している
清国の官僚は、 そのままとして、 つまり、 清国の利権、権力は朝鮮半島に
維持したままなら、 大日本国も 朝鮮半島から撤退するなら、一時的に撤退
に応じてもよいとの清国側のお話しを持ち帰って、 伊藤 博文 筆頭参議らに
報告したようです。
【 北京公使館 榎本 武揚 公使 】
しかしながら、 殺害された 日本人 36人の損害金などの請求には応じる
訳にいかず、 朝鮮国内のことは、 大朝鮮国政府との間で 同年 1月9日に
締結された、 朝 日 漢城条約によって、解決済みであるとして、まったく、
謝罪も、なにも 無かったようです。
【 農商務卿 【 農林水産大臣相当】 西郷 従道 公 鹿児島県出身 】
西郷 従道 公らは、 再度、申し入れを行い、 清国側と最後の交渉で
同意が得られなければ、 両国の軍勢の撤退のみ、 協定を結び、 後日の
為に、 両国が やむなく派兵したり、 その他、 後日事件が発生した時に
話し合いで物事を解決する 枠組みを 今回の会談で仕組み作っておくことが
両国のために望ましいとの、意見具申があり、 それらの意見をふまえて、
清帝国と、大日本国が、 共存、共栄するような 外交関係を、大日本国側
から提案して、 清国と国際条約として締結するように方針が決まっていった
ようです。
もめたあげく、 清帝国と 大日本国は 6回目の 和平協議を行うことになって
行ったと言われています。
これらの 取り決めは、 日清戦争で あってないものになって行くのですが、
当時は、 大日本国の独立を維持するためには、 朝鮮半島の安定が大切と
考えられていて、 日本側は、この当時は、侵略しようとか、 何かを行おうとか
国家として、 考えてはいなかったようです。
【 明日に続く。】