第2010回 昭和の伝道師【 戦中、戦後のパイロットの物語 】

第2009話 甲申事変【 こうしんじへん】 天津条約の6回目の交渉の事。





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【前話の続きより。】


   1885年 明治18年4月18日 清帝国 の天津の港町で、当時の清帝国

 と、大日本国の 甲申事変の和平条約が取り決められたと言われています。

 大日本国側からは、全権代表の伊藤 博文 筆頭参議と、 農商務卿の 西郷

 従道 参議らが出席し、 次のような取り決めがなされたようです。



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 大日本国側からは、 朝鮮半島における、 清帝国と、大日本国の軍隊の

 永久的な撤退案が提示され、 これを 清帝国の全権代表の李鴻章 北洋大臣

 らが拒否し、 結局、 清帝国と、 大日本国の双方の軍隊は、朝鮮半島に出兵

 する権利は有したまま、 出兵する場合は 双方が事前に通告を行うという

 相互通知の原則という妥協案にまとめられたようです。



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 それから、 清帝国、 大日本国の双方は、 大朝鮮国に対して、軍事顧問

を派遣したり、軍事的干渉を行わない事。

仮に 将来的に、また 朝鮮半島一揆が発生し、 内乱が発生し、朝鮮政府の

手におえなくなっていった場合、 相互通知の原則に従い、 双方が出兵しても

鎮定後、派兵後は、速やかに撤退し、朝鮮半島に駐留しないとこう言う取り決めが

行われたようです。

  伊藤 博文 公は、 行文知照 という漢文を書いて 約束を取り交わし、

最後に、 36名の日本人商民殺害事件の犯人を処分するよう申立、 清帝国

側も、 昌徳宮での 清国勢への発砲事件で死傷した、50数名の責任を大日

本国側にとるように 求めたようです。


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   大日本国全権代表 伊藤 博文 公は、 現地の朝鮮人の目撃情報として

 清国の軍勢が 日本人を無理矢理捕らえて、 なぶり殺しにしていたという、

 話を 重ねて紹介し、 清国の軍勢の指揮官の厳重な処分を求めたそうです。

 「 わしゃーー死んでいったもんの 代弁をしとるんじゃ、 このまま ハイそう

 ですかでは、 済まされん問題じゃ、李鴻章 殿、 逆の立場で、 我々が



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 ここ 天津で 同様の事を行ったら、 貴国も 同様の事を言うに違いない、

 のうーー、 ここは、 もう一度、 清国の軍勢の中を 捜査してもらいたい。」

 と、 詰め寄り、 李鴻章 北洋大臣は 渋々、「 調査するある。」 と回答し、

 その先の約束はなにもなされなかったと言われています。

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  そして、 その犯人の調査と引き替えに、 大日本国側は、朝鮮公使、

 竹添 進一郎 公使を 清国側の求めに応じて、 正式に処分する約束を

 行ったと言われています。


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    こうして、 朝鮮半島では、 清帝国も、 大日本国の双方も、4ヶ月以内に

 撤退することが取り決められ、 日本側は、公使館警備の200名を撤退させ、

 清国側は、2千名近い軍勢を引き揚げさせることになって行ったのですが、清国

 派遣の官僚はそのまま 漢城などに居座っていったのです。

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  この天津条約で、 戦【いくさ】をすることなく、清国の軍勢を朝鮮半島から

話し合いで撤退させた、伊藤 博文 公らの行動には、 その多くの人が当時

賛辞を送り、 感謝したと言われています。

 こうして、 少しずつ、清国人の手から、 外交、内政、司法、軍事の権限を

 朝鮮人の元に戻そうとする動きが加速していったそうです。


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   袁世凱将軍は、 そのまま漢城にとどまり続け、 朝鮮半島の清国の支配を

 続けるため、 いろんな事を行って行くのですが、 少しずつ紹介して行きたいと

 思います。



   【 明日に続く。】