第2010回 昭和の伝道師【 戦中、戦後のパイロットの物語 】
第2009話 甲申事変【 こうしんじへん】 天津条約の6回目の交渉の事。
【前話の続きより。】
と、大日本国の 甲申事変の和平条約が取り決められたと言われています。
大日本国側からは、全権代表の伊藤 博文 筆頭参議と、 農商務卿の 西郷
従道 参議らが出席し、 次のような取り決めがなされたようです。
する権利は有したまま、 出兵する場合は 双方が事前に通告を行うという
相互通知の原則という妥協案にまとめられたようです。
それから、 清帝国、 大日本国の双方は、 大朝鮮国に対して、軍事顧問
を派遣したり、軍事的干渉を行わない事。
手におえなくなっていった場合、 相互通知の原則に従い、 双方が出兵しても
鎮定後、派兵後は、速やかに撤退し、朝鮮半島に駐留しないとこう言う取り決めが
行われたようです。
伊藤 博文 公は、 行文知照 という漢文を書いて 約束を取り交わし、
最後に、 36名の日本人商民殺害事件の犯人を処分するよう申立、 清帝国
側も、 昌徳宮での 清国勢への発砲事件で死傷した、50数名の責任を大日
本国側にとるように 求めたようです。
大日本国全権代表 伊藤 博文 公は、 現地の朝鮮人の目撃情報として
清国の軍勢が 日本人を無理矢理捕らえて、 なぶり殺しにしていたという、
話を 重ねて紹介し、 清国の軍勢の指揮官の厳重な処分を求めたそうです。
「 わしゃーー死んでいったもんの 代弁をしとるんじゃ、 このまま ハイそう
ですかでは、 済まされん問題じゃ、李鴻章 殿、 逆の立場で、 我々が
ここ 天津で 同様の事を行ったら、 貴国も 同様の事を言うに違いない、
のうーー、 ここは、 もう一度、 清国の軍勢の中を 捜査してもらいたい。」
と、 詰め寄り、 李鴻章 北洋大臣は 渋々、「 調査するある。」 と回答し、
その先の約束はなにもなされなかったと言われています。
そして、 その犯人の調査と引き替えに、 大日本国側は、朝鮮公使、
竹添 進一郎 公使を 清国側の求めに応じて、 正式に処分する約束を
行ったと言われています。
撤退することが取り決められ、 日本側は、公使館警備の200名を撤退させ、
清国側は、2千名近い軍勢を引き揚げさせることになって行ったのですが、清国
派遣の官僚はそのまま 漢城などに居座っていったのです。
この天津条約で、 戦【いくさ】をすることなく、清国の軍勢を朝鮮半島から
話し合いで撤退させた、伊藤 博文 公らの行動には、 その多くの人が当時
賛辞を送り、 感謝したと言われています。
こうして、 少しずつ、清国人の手から、 外交、内政、司法、軍事の権限を
朝鮮人の元に戻そうとする動きが加速していったそうです。
続けるため、 いろんな事を行って行くのですが、 少しずつ紹介して行きたいと
思います。
【 明日に続く。】