第2021回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】

第2020話 甲申事変【こうしんじへん】外務協弁 メレンドルフの上京のこと。

        



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                     【  明治時代の 横浜港 】



   1885年 明治18年5月、 大朝鮮国 外務協弁 メレンドルフ ら一行

が横浜港に入港する少し前、 当時の外務省と、太政官、 内務省では、慶応

義塾の 福沢 諭吉先生のところに半年前に転がり込んだ、朝鮮独立党の

数名についてどうするのか、 議論が交わされていたようです。



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  彼等は、半年前に 甲申事変という武力決起を起こして、 こと敗れて逃走し、

 福沢 諭吉先生のところに 逃げ込んだのですが、 その後、 当初事情が

 よくわからず、 負傷していたので人道上、看護して保護していたのですが

 その後、 大朝鮮国の政府の閣僚6名の大臣を殺害し、 国王 高宗の忠臣

 宦官 を目の前で殺害し、 高宗を脅迫しと、 いろんな悪評が日本にも伝わり、

 


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   当時、内務卿であった、 山縣 有朋公は、 「ひとつは、内務省で彼等を

捕縛し、処分するか、 大朝鮮国の政府に引き渡すか、 二つ目は、足跡が

残らないように、全員密かに殺してしまうか、 三つ目は、 どこかに連れていって

エサを与えて、 飼い慣らして、後に彼等を利用するか、 四つ目は、彼等を国外

退去処分にして、 アメリカかどこかに、追い出すか、 やつらを このー放置する

と よいことにゃーならん思うのう。」と発言し、 井上 馨 外務卿は、 福沢諭吉

先生から頼まれていたのか、 朝鮮独立党のメンバーを 大朝鮮国側に引き渡す

のは、 得策ではないと意見具申し、 結局、 筆頭参議の 伊藤 博文 公が

決断することになっていったようです。


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   内務卿の 山縣 有朋公は、 「 俊、【伊藤博文公の呼び名】どっちにしても

のう、横浜から 大朝鮮国の政府の一行が東京に来る前に、奴らをどっかに隠す

か、殺すか、きめにゃーならん、 北海道の函館か、 八丈島か、考えにゃーいけん

のう。  東京で はち合わせしてもろうても、 政府としたら迷惑じゃけいのう。」と



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語り、 しばらく考えて、伊藤 博文 筆頭参議は、 「 すまんが 馨さん、福沢

先生に、 独立党をどこかに身柄を移すよう外務省から話を通してもらえんか。」

と、語り、外務省から 福沢 諭吉先生に、東京から、別の場所に移すよう要請

することになっていったそうです。


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                  【 当時の 外務卿  井上 馨 公 】

 そのような経緯で、 外務省の 井上 馨 外務卿から、内々に、慶応義塾

 福沢 諭吉先生の元に、使者が出向いて、 朴 泳孝氏、金 玉均氏らの扱い

 について、政府として東京に、 メレンドルフらが来るので、どこかに移動させて

 ほしいとの要望が行われる事になっていったと言われています。



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                【 東京市 三田の 福沢 諭吉 先生宅 】



   当時、外務省から要請を受けた 福沢 諭吉先生は、「 道を踏み外したとは

 言え、門下の弟子を見捨てるようなことは出来ず、 その弟子達の所在について

 は知っているが、 大朝鮮国の政府が差し向けた 刺客が日本に入国したという

 噂もあって、 今は 人目に付かぬところで隠棲させております。」と回答し、

 すっと 立ち上がり、 窓を「ガラガラガラーーー。」と開けて外を眺めながら


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                    【 慶應義塾 福沢 諭吉 先生】

 「 ふぅーーーーーっ。」と、 大きくため息をついて、 「 井上 外務卿に、お伝え

 ください、 彼等の身の事については、 この福沢が責任を持って、国に、ご迷惑

 とならぬようにさせていただきます。

 そして 彼等を東京から移動させ、 人目に付かぬよう、 手を打ちますので、

 この福沢にすべてお任せください。」 と、 返事をされたそうです。


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                        【 当時の慶應義塾 】

 

ところで、彼等、つまり 朴 泳孝氏ら朝鮮独立党のメンバーは当時 どこにい

たのかと言う事は 秘密になっていたそうです。

と言うのも、東京には、清帝国の公使館や、 大朝鮮国の政府の公使館も

 あったので、 彼等が 慶應義塾に目をつけて監視し、 危害を加えることを

想定し、 彼等の身を 福沢 諭吉先生の自宅から、 移していたそうです。



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      それは当時誰も知らなかったそうですが、後の言い伝えでは、浅草の

    浅草寺の門前の近くの、 人通りが多い一角の 露地を入った場所であった

    と言われています。


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   福沢 諭吉先生は、 朝鮮の漢城から逃走してきた彼等も、慶應義塾の弟子

  の1人であり、 見離すことは出来ないと語り、密かに、大朝鮮国の政府の

  メレンドルフ達が東京に来る前に、急いで彼等を移動させる段取りをしたと

  言われています。



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    福沢 諭吉先生から、 仁川港まで 追討の兵士を引き連れて追い

   かけてきた、外務協弁 メレンドルフらが、東京にやってくると聞いて、

   朴 泳孝氏や、金 玉均氏らは、 驚いて急いで 福沢 諭吉先生が

   慶応門下に頼んで用意した 別の場所に 移動したと言われています。



   【 明日に続く。】