第2025回 昭和の伝道師【 戦中、戦後のパイロットの物語 】

第2024話 甲申事変【こうしんし゜へん】 外務協弁 メレンドルフの宮城参内の事。

                           2017年12月29日金曜日の投稿です。





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             【  当時の 宮城 きゅうじょう  現在の皇居の事。】



   裏側で、 駐日 ロシア公使や書記官と密談を行い、 もう一方では

  本来の目的である、 甲申事件の日本人商民殺害事件などの謝罪を

  行う為、 当時の 宮城【きゅうじょう】に出向くことになった、 大朝鮮国

  の訪日使節団は、わだかまりを持っていたと言われています。



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   それは、 国王 高宗、 王妃の閔妃【びんひ】やその一族は、甲申事変は

 福沢諭吉が絵を描いて、 日本公使館 竹添 進一郎が現地で采配し、

 そして、 日本政府や、三菱が援助する、 朝鮮独立党と土佐自由党などの

 抜刀隊などが 反乱を起こし、 清国の軍勢と武力衝突し、それに巻き込まれて

 日本人の商売人などが、清国の兵に殺害されたのであって、我々は被害者で

 あるとの立場であったそうです。


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     そこで、 国の使節で、 朝鮮国内で、日本人が多数殺されたので、

    両国の良好な関係を維持するため、 頭を下げに来たというのが当時の

    出来事であったようです。



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    大朝鮮国の政府の 正使の 徐 相雨 氏と、 メレンドルフ 外務協弁

  は、 明治天皇に謁見し、 「 大朝鮮国の国王 高宗の名代として、遺憾の意

  を 表明いたします。」と、 申し立てたそうです。


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   遺憾の意とは、 当時 どう言う意味であったかというと、

  「  大変、残念な出来事に思います。」 と言う意味であったそうです。

  一部の人から見ると、 「 不十分である。」との 話しも出たようですが、

   当時の太政官の内務卿、 山縣 有朋公などの要望で、この遺憾の意は

  報道規制がなされ、「 謝罪に訪れた。」 と 表現がなされていったようです。

  その理由は、 遺憾の意 だけでは、 日本国内で騒動が発生する事を恐れた

  からだと言われています。 



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   また、数話後程度に紹介しますが、 当時の日本国内には、政府に対して

  不満を持ち、 言論では何も変える事が出来ないと考えて、 武力によって

  世の中を変えていこうという人達が 動き出していたのです。



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    戦後の教科書では、 自由党というのは、民主主義を訴え、民主化を推進

 していたと紹介されていますが、 確かに、一部の人は、福沢 諭吉先生の本

 を読み、 時事新報社の記事を読み、 憲法の制定、議会制民主主義を唱え

 ていたのですが、 これが、だんだん何を語ろうが、 何を訴えようが、何も効果

 が無いことを悟ると、 強硬手段、 つまり 武力によって 天下を変えていこう

 とする維新回天という考えが広がって行き、 大きな騒動が続いて行くことに

 なって行ったのです。


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 そんな時代に、「 朝鮮国王の使節が 遺憾の意を表明した。」と報道すると

火に油を注いで、風を団扇で送るようなもので、 それ故、 事実と異なる事が

世間に発表されて行ったようです。



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   当時、漢城条約で 大朝鮮国の政府は、大日本国に甲申事変の損害金を

支払う約束を行った事になっているのですが、 実際は 支払う事が出来なかった。

 それから、2年前の壬午事変の損害賠償金も、10分の1程度支払いがあったのみ

で、 支払われなかった。

  しかし、明治政府の太政官は、 それを伏せていたようです。


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   払えない人達と、 損害賠償交渉が成立して、 支払いを約束させたと

  日本国内で発表して、それで終わりにしていたようです。

  払えるわけがないと言うのは、 年貢が入っても、清国が貢ぎ物と称して

  持って行ってしまうわけですから、 何事も、入っては、抜けていき、朝鮮の

  国王は、貧乏であったのです。


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   貧乏であったので、軍事力が低く、 国内で反乱が発生しても、自らで

 鎮圧できず、 それを良いことに、 自らの権力を得ようという人達が、バラバラに

 騒動を起こしていき、 それを押さえるために、外国の軍隊を利用して 治安を

 維持しようとしていったら、 国を乗っ取られ、 朝鮮人は、 外交、司法、行政

 など、清国人に要所を押さえられて、 植民地、 つまり 属国にされていった

 と言うのが当時の状態であったようです。


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   伊藤 博文公や、金 弘集氏などの人達は、 清国が朝鮮から貢ぎ物と

 称して 搾取するのをやめさせない限り、 大朝鮮国の政権の安定は望めない

 と考えるようになっていったようです。

 それ故に、 日清戦争で、 貢ぎ物を禁止し、 清国人を追い出した段階では

 伊藤 博文 公は、 当時の朝鮮の官僚から 多いに歓迎され、人望が高まった

 そうです。


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   話は元に戻るのですが、宮城に参内した翌日、漢城条約の損害金の支払いが

 出来ないという 外務省と、大朝鮮国の政府の外務協弁との交渉が始まっていった

 と言われています。


  【 明日に続く。】