第2041回 昭和の伝道師【 戦中、戦後のパイロットの物語 】

第2040話 甲申事変【こうしんじへん】 金 玉均氏の自由民権演説会の事。

                        2018年1月14日日曜日の投稿です。  




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  【 前話の続きから。】


   1885年 明治18年、 福岡県福岡市の玄洋社の段取りで始められた、

 大朝鮮国 元全権公使 金 玉均 先生の講演会と称する 催しは、多くの人に

 宣伝され、 玄洋社の人以外の人が、 当時 前の年の12月に発生した甲申事変

 の出来事を知ろうと、集まってきたと言われています。



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  冒頭、 玄洋社 三傑の1人、 自由民権運動の福岡県での中心人物の

箱田 六輔 先生が、 昨年12月にとなりの大朝鮮国にて、自由民権の議会制

民主主義を実行するため、義挙を起こした、金 玉均氏の紹介を、「 慶應義塾

福沢 諭吉門下、 大朝鮮国 元全権公使 金 玉均先生。」と行ったと言われ

ています。

当時、この講演会は、 日時をずらして、 複数の場所で行われ、多くの人が

金 玉均氏のお話を聞きに来たそうです。


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  ところで当時 金 玉均氏が何を語ったのかというと、 要約すると、国王の

 側近の奸臣が、対外貿易赤字を計上して、国庫が破綻し、そして官吏の給金

が支払えなくなっていった、その顛末と、 その後、発生した 壬午事変と呼ばれる

動乱のお話し、そして 清国が軍事介入して、 大朝鮮国の政治を朝鮮人の手から

清国人の手へと 奪い取っていった。



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    軍事、外交、財政、行政、司法 すべてが清国人の支配するところとなり、

  清国人の指図に従わないと、 本人だけでなく、 家族や、親戚まで、広場に

  引き出されて、 処刑されることが行われるようになって行った顛末が金 玉均

  氏から語られたそうです。


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     演説会場では、大きなどよめきと供に、 清国人の極悪非道に対して

 大きな怒りが立ちこめていったと言われています。

 これらの、暗闇を 武力によって打ち払い、 自由民権の政権を樹立することが

 計画され、 まず土佐國の後藤象二郎公に自分が相談に訪れ、 高知県の土佐

 自由党の勇士が助太刀に加勢し、朝鮮に入国し、土佐 自由党の 後藤象二郎

 公らが支援を行い、日本政府も後押ししてこの義挙を行う事になっていったと、

 自分達に都合の良いお話しを演説したそうです。



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            【 当時、撤退の決断をした 竹添 進一郎公使 】


 ところが、王宮を占拠し、まさに これからという時に、清国の袁世凱将軍が攻め

 寄せて、 自分達、朝鮮独立等や、土佐自由党の抜刀隊が奮戦しているところに

 竹添 公使や、仙台鎮台の日本陸軍が敵前逃亡し、総崩れとなって行った顛末が

 語られたそうです。


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 こんな お話しを聞いていた 当時の福岡市の人達は、 「 敵に後を見せて

 逃走するとは、 腰抜けばい。」 と、 多いに憤り、「 竹添 という公使は、

 日本人の恥である。」 と思う様になって行ったと言われています。

 そして、 こう言うお話しを 複数回行うことで、 それが この地方で本当の

 出来事と思われるようになって行ったと言われています。


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  金 玉均氏は、自分達の都合の悪い出来事は語らず、 朝鮮半島での圧政

を 同情を誘うようなお話しを行い、人々を引きつけ、 清国人の極悪非道な

行いを語る事で、聴衆の義憤を煽り、 そして、最後に 日本政府が、協力すると

言いながら、途中で 協力をやめて、 自分達 朝鮮独立党と、土佐自由党の抜刀

隊は見捨てられてしまったと 非難したようです。

 こうして、 福岡の人達は、 昌徳宮の王宮から撤退して、逃げたとされた、外務省

の竹添進一郎 公使と、 仙台鎮台の村上 正積 陸軍大尉の警備隊を、「 卑怯者

。」と決めつけて、批判していくことになって行ったのです。



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                【 朝鮮独立党  金 玉均 氏 】


  一呼吸おいて、 会場が静まると、 彼は、 福沢 諭吉先生の興亜論に、

自身のアジア植民地主義解放論を会場で披露し、 日本人と朝鮮人が大同団結

して、 すべての人は平等で、選挙による議会政治の開始、 基本的人権を尊重

した憲法の制定などの考えを会場で説明していったそうです。

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  金 玉均氏は、 自分達が行った、 罪もない人達の家への放火や、時の

 政権の大臣達を6名も 問答無用で殺害し、 国王の側近の宦官を国王の前で

 殺害し、脅迫し、 国王に無理矢理命令書を書かせて、 朝鮮公使 竹添 進一郎

 公使を騙して、 昌徳宮に招き入れたような、 都合の悪いことは語らなかったそ

 うです。

  これらのお話しが新聞記事となり、 公使を辞任して、外務省に戻っていた

 竹添 進一郎公使に、さらなる圧力をかけていったと言われています。

 そして、彼は 辞職願を外務省に提出する事になっていったそうです。



   【明日に続く。】