第2042回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】

第2041話 朝鮮独立党 金 玉均 氏と本因坊秀栄 氏の事。


                           2018年1月15日月曜日の投稿です。




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  1885年 明治18年の9月頃から 九州で行われていった、朝鮮独立党の

金 玉均 氏の 講演会は、当時の 九州の自由民権派の人達に衝撃を与え、

そして、その後の自由民権運動に大きな影響を与えていったと言われています。

つまり どういうことかというと、 暴力によって、自分達の主張を通そうという

そういう人達が、 甲申事変を見本に、行おうという人が出て来たのと、 それから

アジア主義という、日本と朝鮮を合併させて、自由民権の国家を設立しようという

新しい考えが、 金 玉均氏によって 唱えられ、 これを新しい自分達の自由民権

の構想にしていった人達が以後、増えていったと言われています。

そして、 これらの講演会のおかげで、 謀反人 朝鮮人 金 玉均 氏は、

数日で、 九州の 自由民権運動の 大先生と呼ばれるようになって行ったのです。


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                  【  福岡県の 玄洋社の本部 】




  福岡県の 福岡市の玄洋社も 当時70人程 社員がいたそうですが、この

金 玉均 氏の 講演会の後、 なんと、 それまでの方針を世襲しつつ、大アジア

主義の理念の研究に進んで行き、 暴力によって 世の中を変えていこうという

そういう 社員が出て来るのです。


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   この時期の 有名な事件として、 当時の外務大臣 大隈 重信 公の馬車

  を爆破して、大隈 重信 公は、片足を失う瀕死の重症を負う事件が発生して

  いきます。

  この事件も、 玄洋社の社員が、 命を捨てて、体当たりの攻撃を仕掛けたのが

  原因であったと言われています。 

  これらの事件も、 金 玉均 氏の 「大義の為には 小義を殺す。」という

  お話しが 当時の九州の人達に 広がって行ったと言われています。



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  口で、自由民権を唱えても、 政府は聞く耳を持たず、 よって、暴力によって

行動を起こし、 世の中を回転させ、 自分達の考えを通そう、それには、金 玉均

氏らの 行動を手本として、 命を捨てて、本懐を遂げるべしという思想が広がって

いったそうです。



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          【  本因坊 秀栄 ほんいんぼう しゅうえい 氏 】




   ところで、 演説会の期間中、福岡の 玄洋社に逗留していた 金 玉均氏を

 尋ねた人がいたそうです。

 その人の名は、 本因坊 秀栄 と呼ばれる 当時の囲碁界の名家の棋士

 あったと言われています。



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  当時、福岡市の玄洋社は 囲碁を奨励していたと紹介したのですが、 実は、

玄洋社の 頭山 満 先生が中心となり、本因坊家のあり方を議論し、改革して

段位制を作って、 家元に金銭が入るように組織を作って、当時門弟をどんどん

増やして、 その利益が 玄洋社に入ってくるようになっていたそうです。



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  その 頭山 満 先生が、「 金 玉均 先生は、なかなかの碁の腕前。」と

褒めたそうで、 朝鮮半島囲碁の腕前を 確かめに来たと言われています。



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  本因坊 秀和 という 家元がいて、 秀栄 と言う人は、次男で、林という

家に養子に出されていたそうです。

 そして、長男の 秀悦 さんが 跡を継いだのですが、 明治維新で幕府からの

俸禄が途絶え、 江戸城での お城碁という行事もなくなり、 どんどん貧乏に

なって行き、 本因坊家は衰退していき、 どうしたら良いかと、 頭山 満 先生に

相談したようです。

  現在のお茶の家元のように、 いろんな位、 段位を作って、お金を家元に

 納金して、段位が上がっていく、 そういうシステムを 玄洋社が 考えたようです。



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  数話前に、 この碁盤が 大金になって行ったと 紹介していたと思いますが、

  次のお話しから、 そのお話しを紹介していきます。


  【 明日に続く。】