第2048回 昭和の伝道師【 戦中、戦後のパイロットの物語 】

第2047話 朝鮮独立党の金 玉均氏の自由民権の演説の秘密のこと。

                         2018年1月21日日曜日の投稿です。




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   【 前話からの続きより。】


  みなさんが、大勢の人々が集まる前で、お話しをするときに、みんなに最後まで

集中力をもって 話を聞いてもらうためにはどうしたら良いのか、考えたことがある

人は少ないと思います。

 落語家とか、 学校の先生とか、 子供の注意を引きつけて お話しを行って行く

 ことは大変に難しい事です。

 1人、ヤジを飛ばすと、 次々、 妨害をする人が増えて、話が出来なくなっていく、

 演説というのは 大変難しいと思います。

 しかし、初めは ヘタでも、 何回も錬成することで、 それなりになって行くよう

 です。



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  なにしろ、アドルフ ヒットラーという人は、小学校もろくろく 不登校で行って

 おらず、 家で好きな事しかやらない、 嫌いなことは、 何も行わない、

 協調性がない、 そして 自分の考えしか主張しない、 相手のことを配慮

 しないそう言う人でも、 ドイツ人は彼のお話しを聞いて、熱狂していったその

 秘密とは 何であったのかと研究したお話しを以前紹介しました。


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   まず 大切な事は、民衆が不満に感じている話題を本や雑誌や新聞で探して

  それを基に 作り話でも良いので、 頭の中に入れて、紙など見ずに話せる様

  にすることです。

     つまり、文章の棒読みを行わず、 頭の中に暗記して、 相手の顔、目を見て

   お話しが出来る様に、錬成することが大切であるようです。


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   以前紹介したのですが、 イタリー王国のムッソリーニ先生の言葉を借りれば

 自分に自信を持つこと。

 何があっても、 どーんと 構えて、 驚かず、 そう言う心がけを持つこと。

 歩く時も、 のっしぃ のっしぃ と 大人物のように、落ち着いて周囲に動じない

 姿を印象つける様にふるまうこと。

 そして、 彼は 運動をすることが 自信を高めるよい方法だと言って、

 イタリー王国のムッソリーニ先生は、 義務教育制度を強引に制定し、罰則を

 もうけて、 子供を労働から解放し、 初めて 学校に体育の授業を行うことを

 進めていった、 そして、「国民に自信を持って、毎日 少しずつ 頑張るように。」

 と、スローガンを作って、宣伝していったのです。

 当時、日本もそうでしたが、 子供は労働力で、庶民は学校に行って勉強する

 習慣が一部の金持ちの子弟ぐらいしか無かったイタリー王国をムッソリーニ先生

 は、国家の強権政治で強引に改革していったのです。

 戦後伝えられる 悪人 ムッソリーニを研究して見ると、 学校の教員であった

 彼には、教育の充実こそ、 国力の増大につながっていくと考えていた様です。

 それから、出産の奨励、 間引きの禁止、 つまり 生まれた子を埋めて殺す

 行為の禁止を公言し、 国の奨励として、出産を奨励して保護していったのも

 ムッソリーニ先生でありました。

 今の世から 比較して見ると、当時、画期的な政策であったのです。

 但し、これに異議を唱える人を 武力で排除し、弾圧していった、民主的な

 事を行っていたのでは、いつまで経っても 何も出来ない世相であったのです。
 


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  彼の演説は、フランス語の教員時代に、子供が居眠りをしないように、授業を

 するにはどうしたらよいかとずいぶん考えたようです。

 彼は、 チョークを投げたり、拳骨を入れて、暴力に訴えたり、しかし、生徒全体

 に暴力は振るえません、 スイスにいた時、 共産党レーニンと会い、「オペラ

 を研究したまえ。」 と薦められ、 少ない給与でオペラ劇場に通ったそうです。

 そして、彼の演説を見て、いろんな事を模倣したのが、 ヒットラーであったの

 です。

 党員共通の制服を作る、 党の歌を作る、党の行進の音楽を作る、選挙組織に

 軍隊の部隊制度を応用し、 動員をかけたり、連絡網を整備していったのも

 ベニート ムッソリーニ先生であったのです、 その組織を フッアッシィーと

 呼びました。

 つまり ファシズムの原点です。

 民主主義の欠点は、安定多数の議席がないと、なにも決められない、少数

 政党が乱立し、 法案に協力する為に、金銭のやり取りが行われ、それが

 次の選挙の選挙資金となり、 そして、 政治が停滞し、迅速な対策、政策の

 実行が出来なくなっていった、 それが 大正、昭和の初期の世界の議会

 でした。


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 1人の強力な決裁権を持った 総帥 こと、 フェラーが、有効な政策を迅速

 に国の将来を考えて、実行して行く、 これが フッァッシーこと、ファシズム

 の定義であったのです。

 イタリー戦闘団 フッァッシィーは、退役軍人の会であったことは 以前紹介

 しましたが、 ヒットラーは模倣して行ったのです。



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   ヒットラーは 刑務所に収監されていた 大正13年頃考えたわけです。

  自分は 陸軍伍長で、 ムッソリーニは 陸軍軍曹で、彼のまねをすれば

  今は囚人だが、 後に 道が開けるに違いないと、思ったようです。


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   ヒットラーも オペラ劇場を研究して 何を得たかと言うと、 話の強弱をつけ、

 両手で、上手に 話を聞く人を引きつけていく、 そう言う事を会得したようです。

 静にーー静にーー、沈黙して 注目を集める、 そして 大声を出して、 両手で

 聴衆の心に訴え 響かせ、心に残る言葉を浴びせる。

 初期の ヒットラーの演説や、ヘスの演説、 ケッペルスの演説の基本はオペラの

 語りかけの応用であったのです。



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  ところで 明治18年の当時の 金 玉均 氏の話し方というのは、人の感情

を揺さぶる技法であったと言われています。



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 初めは清国人に国を乗っ取られ、 多くの人が 清国人に 広場に連れ出され

 見せしめで殺害され、 多くの人が泣き寝入りして 奴隷と成りはてていった。

 ここで、会場の人々の涙を誘うお話しを紹介し、 しーーんと静になっていった

 ところで、 今度は、 握り小節を突き上げるようなお話しを行うわけです。



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    自由民権の為に、土佐自由党の抜刀隊と義挙に及び、世の中を変えて

  いこうと立ち上がっていった。

   こんな お話しをすると、聞いていた人は、怒りがこみ上げ、「 やれぃー。」

   「 どんどん やれぃーぃ。」と 心の中で思う様なお話しを紹介するわけです。


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   立ち上がって これからと言うときに、 日本陸軍の 竹添公使らが臆病風

  を吹かせて逃げていった、 そして 総崩れとなっていった。

  あそこで、 もう一本、 相手に痛打を加えていたら、 今頃は 自由民権の

  国家が樹立できたと、 日本政府と外務省を悪人に仕立てて、演説会場の

  聴衆の心を 揺さぶるお話しを繰り返して行ったようです。



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    福沢諭吉先生の 自由民権と興亜論のお話しは、多くの人の心に届いた

  のですか、 副作用も多々あったようです。

  その副作用というのは、 口先で 自由民権を訴え、 暴力に訴えて行く人が

  多く出て来たことでした、

  金 玉均 氏 という人も、「 大義の為には小義を殺す。」と、唱えて、人殺しを

  正当化していく人で、 段々エスカレートして、 それを止める人はいなかった

  ようです。


  【 明日に続く。】