第2073回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】
【 前話からの続き。】
1885年 明治18年11月の終わり頃、 内務省で、当時の内務卿であった
山縣 有朋公と 慶應義塾 主宰 福沢 諭吉先生は、 会談に及び、山縣 有朋
公は 自分の申し入れについて、 ことごとく福沢 諭吉先生に論破され、「 国民
の国家に対する平穏な請願権が不足しているがために、反乱が起きるのであって
これを防ぐには、 民主的な憲法の制定、 民主的な選挙による その地方の民意
を得た議員の選出、 そして民主的な議会政治こそが、その対策であってー云々。」
と、時の政府の 臣民を振り返らない その行為、政治が原因であると指摘され、
返事に窮した、山縣 有朋 公は、話の流れを変えようと、朝鮮独立党のお話しを
始めたと言われています。
【 内務省 内務卿 山縣 有朋 公 】
「 ところで、こんなぁー、 今年の1月に、井上外務卿に、 自分が保証人
になるので、朝鮮から逃走してきた、朝鮮独立党の9名を、 我国で匿ってもら
いたいと頼んだそうじゃが、 わしゃーー、それに反対じゃったんじゃが、 馨の
【井上 馨 外務卿のこと】顔を潰してはと考えて、だまって聞いておったんじゃが、
聞けば神戸に隠棲しておる、朴 泳孝は、 書を書いたり、水墨画を描いたりして、
静かに生計を立てておるそうじゃがのうーーー、長州人にも武士の情けというもの
がある。」
【 福沢諭吉先生の世話で 神戸に借家を借りて、隠棲していた 朴 泳孝 氏】
と言って、 ギロリと、福沢 諭吉 先生を見据えると、「 問題は、 こんなーも
よう 知っとる思うが、金 玉均 じゃ、 あんなーはいけんのう。」と ため息をつ
いて 、 山縣 有朋 公は、 福沢 諭吉先生に手招きをして、 近くで、「 実は
自由民権運動家を煽って、 部隊を作って、 朝鮮に攻め入る準備をしておる
らしい。 こんなー いったい どうする気なーーっ、 おおぅっ。」 と、ささやいた
と言われています。
【 朝鮮独立党の金 玉均 氏 】
この話を聞いた 福沢 諭吉先生は顔色は変わり、多いに驚き、心配していた
ことが現実になったと思ったようです。
山縣 有朋 公は、 福沢 諭吉 先生に対して、責任を取るよう強談に及んだと
言われています。
その日の翌日、 福沢 諭吉先生は、 神戸の朴 泳孝氏に手紙をしたため、
その手紙は、 月が変わって、12月の初頭に神戸の朴 泳孝氏の手元に届けら
れたそうですが、 この手紙が原因で、朝鮮独立党は2度目の内部分裂を起こし
て行く事になっていったと言われています。
この騒動、 山陽自由党の 影山 英子先生なども巻き込んで、大きな騒動に
発展していったのです。
【 明日に続く。】