第2126回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】
第2125話 大隈重信遭難事件前夜の事。 2018年4月15日日曜日の投稿です。
【前話の続きより。】
今現在の 早稲田大学を設立したとされている 大隈 重信 公が、どうして
福岡市の玄洋社の社員に襲われて、足を切断に至る重傷を負うことになって
行ったのかと言う事は、謎の多い部分で、 犯人の 玄洋社の 来島 恒喜 氏
が犯行後、 その場で自決したので 当時 背後関係がまったくわからなかった
そうです。
そういうわけで、 朝鮮独立党の 金 玉均 氏が背後にいるとか、 玄洋社の
幹部が背後にいたとか、 噂にしかならなかったそうです。
つまり、 来島 恒喜 氏は、1人で 肉弾攻撃を行い、砕け散って、証拠を
一切残さなかったそうです。
どうして 大隈 重信 公を 殺害する必要があったのか、 こういう事を考えて
見た時に、 その大きな目的は 日本の裁判官制度にあった様です。
戦後の現在、 日本の裁判所の裁判官 こと 判事、 判事補 はすべて日本人
ですが、 大隈 重信公は、 これに 外国人判事を加えようとしていたと言われて
います。
玄洋社は、 これに反対していたとされています。
明治19年8月に発生した 長崎事件、 この調停に、イギリス人の弁護士な
どが横やりを入れて、 日本が悪くなり、 多額の賠償金を長崎県が支払う事に
なっていった事件を以前紹介したのですが、 これに 当時の九州の人達は、多い
に不満を覚えていたそうです。
清国海軍の将兵が、 長崎の港で 酒によい、暴動を起こし、器物損壊、婦女暴行
日本人巡査を袋だたきのリンチ殺人事件を行って、 どうして日本人が清国人に
損害賠償金を支払わなければならなかったのか、納得がいかなかった人が多かっ
たところに、大隈 重信公が、 日本の裁判所に、 外国人判事をおいて、裁判を
行わせようとしていたとされていて、 多いに反発が起こっていたそうです。
【 福岡市の愛國団体 玄洋社 幹部 集合写真 】
日本の司法制度、 明治20年頃は いったいどうであったのか、勉強して
見る必要がありそうです。
【 明日に続く。】