第2140回 昭和の伝道師【 戦中、戦後のパイロットの物語 】

第2139話 井上 馨邸事件前夜の事。 2018年4月29日日曜日の投稿です。






イメージ 1



                     【 当時の 東京府 警視庁 】


【 前話の続きより。】


  1889年 明治22年の12月頃、 東京府の警視庁が、外務大臣 大隈 重信

 公の暗殺未遂事件を捜査していた頃、 内閣総辞職明治天皇に奏上した時の

 内閣総理大臣 黒田 清隆公は、 三条 実美 公に、「 黒田 殿の辞任は受付

 るが、他の閣僚の辞任は、御上がお許しになりませぬ。」との回答で、 なんと他の

 人はそのままで、 黒田 清隆 内閣総理大臣と大隈 重信外務大臣が、2人だけ

 辞任して、他の人はそのままの形になっていったそうです。



イメージ 2


             【 内大臣 兼 内閣総理大臣 三条 実美 公 】


   薩摩の 黒田 清隆 公としたら、せっかく西洋諸国と不平等条約を交渉して

  改正にこぎ着けたのに、 その内容について反対する人が多々あり、それでは

  別の内閣でやればよいではないかと 内閣総辞職を決めて、閣僚全員が

  辞表を書いたのですが、 内閣と、天皇陛下の取り次ぎをしていた、 太政官

  時代の太政大臣で、公家派の筆頭であった、 三条 実美公に、梯子を外され

  つまはじきにされた形となって行ったようです。

  
イメージ 3


         【 第2代 内閣総理大臣 黒田 清隆 公 鹿児島県出身 】



   その後、 次の内閣総理大臣はいったい誰がなるのか政局になって

  行ったようです。

  黒田内閣が総辞職に至った、 外国人判事の裁判所での勤務の問題に強く

  反対していた、前の外務大臣 井上 馨 公が しきりに、時の内務大臣

  山縣 有朋公を次の総理にと動いていることを知った 黒田公は、多いに

  腹を立てたと言われています。


  【 明日に続く。】