第2147回 昭和の伝道師【 戦中、戦後のパイロットの物語】
第2146話 明治27年 清国公使 李 経方の事。
2018年5月6日日曜日の投稿です。
【 慶應義塾 主宰 福沢 諭吉 先生】
【 前話の続きより。】
慶應義塾の 福沢 諭吉先生が、 興亜論から、脱興亜論に変わっていった
大きな事件と言うのは、 東和洋行ホテル事件が原因であるとされています。
学校の教科書にも載っていない、この事件、大変謎が多く、不可解な事件でした。
【 東京府 清国駐日公使館 】
明治26年の年末頃、 慶応門下の紹介で、当時の清国の駐日日本公使が
慶應義塾の 福沢 諭吉先生の元を訪れたとされていて、 その駐日公使の
名は、 李 経方 であったとされています。
この 駐日清国公使 李 経方 という人物は、清帝国 北洋大臣 李 鴻章の
養子でありました。
されています。
この 清国公使 李 経方 が言うには、「 父、李鴻章が、上海で、1度、
日本に滞在している 朝鮮独立党の 朴泳孝氏、 金 玉均 氏に面会し、
会談を持って、 物事を円満に解決し、 朝鮮に帰国できるよう、 清国の北洋
大臣 李鴻章が、 閔氏の朝鮮政府との仲立ちを行い、長年の対立を解消し、
すでに、日本の外務省にも了解を得ているとのお話しであったとされています。
このお話し、 証拠が無いお話しですが、 日本の陸軍の特務機関が
1枚噛んでいたとか、 陸軍に根を張る 山縣有朋公も 1枚噛んでいたとか、
日本の外務省は、知っていたのか、 知らなかったのか、 すべて 闇に葬ら
れていったとされています。
清帝国の 代表者である、駐日公使 李 経方 公使から、「日本の外務省
にも了承され、 父が、 朝鮮独立党の面々と、腹を割って、上海で話し合いを
行いたい。」との申し入れに、 福沢 諭吉 先生は、 疑いも持たずに了承し、
話の内容を手紙にしたためて、 朴 泳孝 氏、 金 玉均 氏に送ったとされて
います。
【 明日に続く。】