第2168回 昭和の伝道師 【戦中、戦後のパイロットの物語】

第2167話 東和洋行ホテル事件 金 玉均氏の慶應義塾での葬儀のこと。


                       2018年5月27日 日曜日の投稿です。





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                【 東京府 三田の 福沢 諭吉邸 】


   【 前話の続きより。】


    言い伝えによると、 金 玉均 氏が、上海の東和洋行ホテルの2階で殺害

   されたとされていた、明治27年3月28日から49日経った、5月になって、

   東京府 三田の慶應義塾の隣にあった、 福沢 諭吉邸で、福沢諭吉先生

   が費用を出して、金 玉均氏の葬儀が、慶応門下や、当時の自由民権活家や、

   遠く、九州の玄洋社の人達や、 同じ 朝鮮独立党の 朴 泳孝氏らが、神戸

   から集まり しめやかに行われたとされています。



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    福沢 諭吉先生が、慶応門下の僧 東京 駒込の真浄寺の住職であった

    寺田 福寿 氏に頼んで 金 玉均 氏の位牌を作り、 和田 延次郎少年

    が持ち帰ってきたとされている 遺髪、衣類の一部が備えられ、経が唱え

    られ、無念の死を偲んだとされています。


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   ところで、当時の金 玉均 氏の葬儀の出席者のなかには、ここに来て、

 その死の経緯を知り、 その後の遺体への外務省の扱いや、その後の清帝国

 や、その配下の朝鮮の閔氏の政府の 情け無用の遺体への屈辱的な行為を

 聞くに及び、大きく憤り、政府への批判を行うようになってい行ったとされてい

 ます。


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   暴力に批判的で、戦争を否定していた 福沢諭吉先生が、この後、日清戦争

  を支援する募金を行ったり、 清帝国との戦争を唱えていくようになった背景に

  は、 慶応門下の金 玉均氏の殺害と、その後の遺体へのひどい仕打ちがあ

  ったのが原因ではなかったのかと伝えられています。


  【 明日に続く。】