第2173回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】
第2172話 東学党の乱事件 伊藤 博文内閣の外交方針のこと。
2018年6月1日 金曜日の投稿です。
【 前話の続きより。】
に対して内政干渉を行ったりしないと定めていて、 動乱などが発生した場合は、
清帝国に催告して、必要最小限の兵力を派遣し、動乱が終熄次第、速やかに
には、原則不介入の立場をとっていたとされています。
こういう 伊藤 博文公と 西郷 従道公らが、天津に出向いて締結した国際
条約があって、どうして 日清戦争になって行ったのか、よくわからない人が多
いと思います。
【 大院君 興宣 】
李氏朝鮮を滅亡に導いて行った人の筆頭にあげられる 国王 高宗の父親
大院君 興宣 と言う人は、 東和洋行ホテル事件が発生した 明治27年頃
から、 宗教を利用した東学党の乱を煽動し、徐々に 閔氏の政権を圧迫し、
ていったとされています。
といけない。」と、唱えて、当時、いろんな朝鮮人の一派から支持を得ていたと
されています。
出来ないと悟と、 閔妃と閔氏の政権は、清国に派兵を要請、 つまり軍事介入
進める事になっていったとされています。
こうして 天津条約は、清国側の行動であってないような形になって行き、天津
から海路、 丁 汝昌 将軍の清国 北洋艦隊が江華島海域に進出し、 陸上
兵力を朝鮮半島に揚陸し、 閔氏の政権維持のために、軍事介入に至ったの
です。
これに、 大院君 興宣は 対抗する為に、 大日本帝国に派兵を要請し、
いろんな経緯があって、日清戦争に至ったのですが、 大院君派は、自らが中心
となって、つまり、朝鮮人に政治を取り戻そうとしていたので、 日本を利用して
使い捨てにしようと考えていたとされています。
日清戦争の詳細な戦闘のお話しは以前紹介したので紹介を省きますが、
と、閔氏の一派が対峙するようになっていったのです。
閔妃と閔氏の政権、 つまり 国王 高宗を中心とする政権をそのまま存続し、
朝鮮半島を影響下に置こうとしていったとされています。
この伊藤 博文内閣の決定に、大院君 興宣を中心とする一派は、自分達が
追い出そうと陰謀を巡らせていったとされています。
【 明日に続く。】