第2195回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】
2018年6月24日日曜日の投稿です。
【 前話の続きより。】
フランス公使館などに保護を求めて逃走し、 大朝鮮国の首都 漢城では多いに
混乱したとされています。
占拠していて、国王 高宗を監禁しているとして、大日本帝国を非難する電報を
打ったと言われています。
当時の世界1の軍事国家は、大英帝国で、 2番目に軍事力が強いと評判が
あったのは、大ドイツ帝国でした。
当時、イギリスに次ぐ、海軍力を擁していて、 次に、フランス、アメリカの順で
あったのですが、 ロシアだけでなく、 フランスやドイツなどから、そしてアメリカ
からも、朝鮮公使 三浦 梧郎 公使が、陸軍部隊で王宮を占拠し、国王を監禁
していると抗議の申し入れを受けたため、 当時の広島大本営では、現地を確認
することなく、朝鮮全権公使 三浦 梧郎 元陸軍中将が一人歩きして王宮を占拠
し、閔妃を殺害し、 国王 高宗を監禁していると 信じ込んだようです。
当時の記録によると、各国からの抗議の内容が、ほぼ同じ内容で、広島大本営
は、各国の抗議を分析して、 朝鮮公使 三浦 梧郎公使らが、決起を計画して
王宮を占領したと 思い込んでしまったようです。
【 三浦梧楼公使と対立関係にあった 山縣有朋公 】
そしてさらに運が悪かったのは、当時の山縣 有朋公らが、「三浦梧楼公使を
罷免しろと騒いだとか、そういう説もあります。」 山縣 有朋 公も、三浦 梧郎公使
も長州 萩の出身なのですが、両者 サルと犬の関係であったとか、いろんなお話し
が伝えられています。
山縣 有朋公曰く、「 わしゃーーのーー、萩の頃から 三浦をずぅーーっと
みようるが、ありゃーーぁーーいけんどぅーー。」と、誹謗中傷し、 内閣の閣議で
当時の内閣総理大臣 伊藤 博文公は、決断を迫られていったのです。
内閣総理大臣 伊藤 博文公が決定した決断とはなにか、それは、「本土から
外務省の幹部を漢城に送って、事実関係を調査し、早急に事態の収拾に努める
べし。」との決定であったそうです。
こうして 広島大本営から、外務省の別の一団と、その警備を担当する護衛部隊
が朝鮮に向けて宇品港から出発する事になっていったと言われています。
【 明日に続く。】