第2224回 昭和の伝道師【 戦中、戦後のパイロットの物語 】

第2223話 北清事変 動かなかった 袁世凱将軍のこと。


                        2018年9月16日日曜日の投稿です。



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   【 前話の続きより。】


   上の地図の北京から、 外国人租界地のある天津に向かって、西太后

 命令で 西洋人を打ち払うことになった 清国の正規軍は、北京を守る直隷省

 の軍勢の 聶 士成 将軍の軍勢が向かうことになって行ったお話しを紹介しま

 した。



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    天津という場所は、北京の南東にある都市で、さらに南東の海岸には

  タークー砲台という、海岸に面した砲台があったのです。



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                       【 タークー砲台の位置図 】


 当時の 西洋人 主にイギリス軍が主体だったようですが、 この海岸のタークー

砲台付近に駐屯していたのですが、 清国軍が宣戦布告して攻め寄せて来ると

わかると、 タークー砲台を放置して、 天津の租界地に戻ったそうです。


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     こうして 天津と北京の間で、 天津を警備する目的で駐屯していた西洋

  外国人の軍隊と、 清帝国の武衛軍がにらみ合うようになって行ったそうです。



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   この当時、 山東半島に出陣していた 袁世凱将軍の軍勢はどうしていたか


  というと、 戦争をしていた義和団の残党と手を組んで、 守っていた ドイツ人を

  攻めて 首をあげろとの命令に多いに驚き、 命令の確認と、静観を決め込んで

  様子をうかがっていたそうです。



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         【 ドイツ人警護で 山東半島に出陣していた 袁世凱将軍 】



  袁世凱将軍は、 何が発生したのか、全くよくわからなかったようです。

  西太后から「 義和団を殲滅し、 西洋人を保護しなさい。」と命令され、遠く

  山東半島に出陣したそうですが、 今度は、「 義和団と協力して、西洋人を

  打ち払え。」と言う。  

  今まで 殺し合いをしていたのに翌日から 手を組むことは出来なかった

  ようです。



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  それは、天津に展開していた 武衛軍の聶 士成 将軍らも同様で、つまり

  義和団とは 手を組まず、 武衛軍は、 武衛軍だけで 西洋人連合軍と

  対峙していったようです。

   こうして、 1900年 明治33年7月の初頭、天津と北京の間で戦闘が発生

  していったのです。


   【 明日に続く。】