第2229回 昭和の伝道師【 戦中、戦後のパイロットの物語 】
第2228回 北清事変とボーア戦争のこと。
2018年9月21日金曜日の投稿です。
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【 前話の続きより。】
備え、 毎日のように本国政府に救援を求める電信を発していたのです。
彼等から見ると、天津の領事館の周辺の民間の清国人すべてが義和団の
暴徒になる可能性が高いと考えていたそうです。
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そのような中、 イギリスの領事館はどうであったのかと言うと、当時 イギリス
政府は、「 事もあろうに、イギリス海軍の海軍中将ともあろう人物が、清国人に
後を見せて、北京の公使館員を見捨てて退却するとは何事か。」 と見咎める
電信が届き、 「援軍は送れない。」との 申し渡しであったそうです。
シーモア海軍中将の判断は、戦略上、適切な判断であったのですが、当時の
イギリス海軍のネルソン提督以来の伝統精神に反していたのです。
「 例え、身1つでも 敵を見たら、 相手が1万人、2万人でも、果敢に
攻撃する。」 という 見敵必戦の伝統精神に反していたのが原因でした。
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実は当時 イギリス本国は、アフリカ大陸でボーア戦争を行っていて、
遠く清国まで陸軍や海軍を派遣する余裕が無いのが現状でした。
ガル人やスペイン人や、その後オランダ人が現在の南アフリカに入植して住み
着き、数代の年月を経て、その人達をイギリスはボーア人と呼んでいたそうです。
初めは彼等と貿易していたそうですが、 この地に金やダイヤモンドの鉱山
が見つかると、 それをイギリスは横取りしようと計画し、戦争に発展していった
のです。
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現地の人は、ゲリラ戦で対抗し、 イギリス軍が行ったのはどういうことで
推し進めていったのです。
現地の元々住んでいたアフリカ人や、ボーア人の家族を武力で捕縛して強制
収容所にまとめて放り込み、 そして焦土作戦を行って行ったのです。
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されないように、畑や家や井戸まですべて破壊し、焼却していったのです。
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その後、 この場所に イギリス人を入植させ、 自分達の固有の領土で
あると宣伝していったのです。
与えられず 殺されていったとされています。
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このような焦土作戦を展開していたのが、ちょうど1900年7月当時で、
イギリス側は、点と線を死守し、 その他の場所は 町や村を焼き払い、ゲリラ
を掃討していた当時、 遠く極東の清国まで兵力を展開する余裕は無かったのです。
は、同様に フィリピンに進出して、現地人のゲリラに頭を悩ましていたのです。
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このような出来事を当時の諜報員から 日本政府は西洋各国の動きを把握し
ていて、 清国人が西洋人を追い払えば もっけの幸いと考えて、静観しようと
こうなっていったようです。
![イメージ 9](https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/A/A20190825D/20010101/20010101204810.jpg)
【 明治33年当時の内閣総理大臣 山縣 有朋 公】
当時の山縣有朋内閣は、清国が西洋人を追い払えば、日本にも好都合で、
日本が西洋人の背中を掻いても、利益は無いと考えていたそうです。
反面、清国へ協力したら 日本が破滅に向かってしまうと考えて、清国には
非協力と決めていたようです。
こうして北清事変の前期、 大日本帝国がすべてに消極的であったとされて
いるのは こういう理由からのようです。
【 明日に続く。】