第2237回 昭和の伝道師【 戦中、戦後のパイロットの物語 】

第2236話 北清事変 山縣 有朋 内閣総理大臣の決断のこと。


                       2018年9月30日日曜日の投稿です。




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             【 北清事変当時の内閣総理大臣 山縣 有朋 公 】



  【 前話の続きより。】


  南アフリカボーア戦争のゲリラ戦で手こずっていた当時のイギリスは、再三

 大日本帝国に対して、「天津に出兵してほしい。」と、繰り返し申し入れをしてき

 ていた当時、 山縣 有朋 内閣総理大臣は、のらり、くらりと返事を先延ばしに

 して様子を見ていたそうですが、 ロシア帝国が イギリス側の要請を飲む形で

 満州から北京を攻めているとの報告を聞くと、顔色を変えて、 先の事を熟慮

 していたそうです。



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  当時の 内閣は、ロシア帝国が近いうちに必ず大日本帝国を攻めてくると

危機感を募らせていたそうです。

 ロシアが北京を攻め落として、領土を拡大すると大きな脅威になるわけで、

 イギリスなどの連合軍に協力して、 先に北京を落として、ロシアを押さえ、

 世界の大帝国 イギリスと手を組んで、ロシアに対抗するのが賢明であると

 の結論を当時出したそうです。




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   宮城 【きゅうじょう、 現在の皇居のこと】で閣議が開かれ、「船に乗り遅れる

 前に出兵すべし。」との意見がまとめられ、天皇陛下の採決を得て、1900年

 明治33年 7月 大日本帝国清帝国に宣戦布告を行い、支那大陸に陸軍の

 精鋭部隊 広島第5師団を派遣する事になって行ったとされています。



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  ロシア帝国の軍勢は、イギリスやドイツなどからの新しい援軍が到着するまで

 に、ロシアによって北京を占領し、 戦後処理の主導権を握ろうと計画していた

 そうで、 西洋列強の中で1番多くの兵力を投入し、当時の清国に友好的な

 態度をとって、清国人を安心させ、 後から刀を浴びせる行為に及んだのです。



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     油断していた清帝国は、西太后の裁可を得て、軍勢をロシア追討に

  に向かわせることになって行ったそうですが、 寄せ集めの 義和団の兵力

  と、天津に展開していた敗残軍しか動かせなかったとされています。



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  当時 西太后は 西洋諸国との戦闘に勝利していたと報告を受けていたので

  それを信じていたそうですが、実は、清帝国の精鋭部隊は天津の戦いで敗戦

  し、大きく兵力を消耗し、定数を大幅に下回っていたそうです。

  彼女は、中南海から出たり、その勝利の確認を行うような事はしなかった

  そうです。



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                       【 直隷総督  裕禄 】



     直隷総督 裕禄は、 敗残兵や、義和団の寄せ集めの兵をロシア軍

  迎撃のため 天津での敗北を西太后に隠して出撃させたと言い伝えがあります。

  


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    清帝国は、 日清戦争で海軍が全滅していたので 海から攻めることが

  出来なかった、 つまり制海権がないので、 西洋諸国は海からどんどん補給

  することが出来たわけです。


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  少ない兵力で、一網打尽と考えられていた天津の領事館の周辺に、機関銃が

  すえられ、撃ちまくられて、大きな被害を出してしまった、 そういう事情で、

  天津の西洋諸国連合軍に 兵力の補給を受ける時間を与えてしまった、これが

  後に 清帝国崩壊の原因になっていったとされています。

  夜襲をかけるとか、もっと 知恵を出して、機関銃を潰して、前進すれば

  勝利できていたかもしれません。


  【 明日に続く。】