第2242回 昭和の伝道師【 戦中、戦後のパイロットの物語 】
第2241話 北清事変 服部 雄吉 海軍中佐の戦死の報道のこと。
2018年10月6日土曜日の投稿です。
部隊長 服部 雄吉 海軍中佐が、天津の東海岸のタークーに上陸した後、
大規模な戦闘が当時あったそうです。
この部隊の作戦行動の目的は沿岸部に上陸して 陸軍部隊の上陸地点を
確保しておくことが作戦の目的であったそうです。
当時の言い伝えでは、 その場所に 西洋諸国の軍隊も駐留していた場所に
義和団の軍勢が およそ3万人の兵力で押しよせて来たとされています。
これを その海岸にいた 各国の兵力が迎え撃つ形で戦闘行為があり、その
戦闘で、 日本海軍陸戦隊の 服部 雄吉 海軍中佐が戦死されたそうです。
【 服部 雄吉 海軍中佐 戦死の地 】
当時、日本に この戦闘の事が新聞で報道され、 服部海軍中佐他、
佐世保海軍陸戦隊の多数の戦死が報道されると、 日本の世論は、一気に
「支那人に報復を行うべし。」という 戦争を支持する世論が高まったそうです。
杉山 彬【あきら】 書記官が なぶり殺しにあったと言う情報が報道で伝わると、
清国人に対する 嫌悪が増大していったそうです。
こうして 夏の暑い7月に、イギリスの度重なる出兵要請や、世論に押される
形で天津近郊に 日本陸軍の第五師団を中心とした軍勢は上陸し、天津に
向けて 進軍していったそうです。
などの軍勢は、 一般人の服装で、突然襲ってくる 義和団の兵士達と、市民の
区別が 付かなかったようです。
明らかに おかしいと思う婦女子などは発砲しなかったようですが、 義和団の
独特の髪型などと、よく似た髪型の市民を捕まえて 処刑していったそうです。
こういう一方的な 西洋人の行為が、 怨みに怨みを呼び込んで、義和団で
ない人達も、 西洋人を襲うようになって行ったと言い伝えられています。
【 明日に続く。】