第2249回 昭和の伝道師【 戦中、戦後のパイロットの物語 】
第2248話 北清事変 ガスリー司令官と山口 素臣陸軍中将の会談のこと。
2018年10月13日土曜日の投稿です。
【 前話の続きより。】
1900年 明治33年の7月、イギリスのインド軍司令官 アルフレッド ガスリー
を差し置いて、自分が連合国の総司令官にふさわしいと名乗りをあげて、日本陸軍
の支持をとりつけて、 これに イギリス領 オーストラリア軍や、その他の諸国も
同調し、第2次 多国籍の連合軍が結成されたのです。
【 陸軍 第五師団 師団長 山口 素臣 陸軍中将 】
そこに、 広島第五師団の師団長 山口 素臣陸軍中将の 北清派遣軍の
本隊が到着し、 ガスリー司令官と、山口 素臣 陸軍中将の会談が行われる
事になっていったとされています。
当時 通訳には、 幕僚長として司令部にいた福島 安正 陸軍少将が加わった
とされています。
【 当時の写真 中央 ガスリー司令官と、左 山口陸軍中将 】
ガスリー司令官は、「 イッコクモハヤク、北京ヲ センリョウスル ヒツヨウガ
アリマース。 ロシアニサキニセンリョウヲユルスト ワレワレノタチバガ ヨワクナリ
タイヘンナコトニナリマース。」「 ソノマエニ テンシンヲ センリョウスル ヒツヨウ
ガアリマース。」 と語り、 日本側に 天津の攻撃を提案し、 山口 陸軍中将側
も これを了承し、 7月中旬、 天津を攻めることが決定されたそうです。
こうして、 第1次連合軍が撤退して、海岸に防衛拠点を構築して にらみ合い
が続いていたのですが、 海岸から 改めて 天津に進撃する事になっていったの
です。
日本陸軍は、 瑠弾砲50門など、次々と内地からタークー砲台付近に到着し、
天津を占拠していた 義和団を攻撃する事になっていったのです。
こうして 清帝国は、 中国 東北部の方向から ロシア軍の攻撃を受け、
各地で敗退が続き、 別方向から、 イギリスと日本を主力とする 第2次連合軍
と呼ばれる軍勢に攻められる事になっていったのです。
【 直隷総督 裕 禄 】
言い伝えによると、 各地で敗戦が続いていた事実を、直隷総督 裕 禄は
自分のところで情報を止めて、 西太后に隠していたとされています。
していると思い込んでいたそうです。
そして 次々、強気の命令を出していった。
そして、現実と、違った命令がさらに混乱を呼んでいったようです。
【 明日に続く。】