第2250回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】

第2249話 北清事変 第2次連合軍の天津総攻撃のこと。


                      2018年10月14日日曜日の投稿です。




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  【 前話の続きより。】



 1900年 明治33年の7月の初旬、日本陸軍を主力とする 第2次連合軍

が結成され、異議を唱えていた ドイツ側は わずか200名の形だけの参加で

あったそうです。 



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 当時の言い伝えによると、 日本陸軍 広島第五師団の司令部を中心に、

福山歩兵第四十一連隊、 山口歩兵第四十二連隊を主力として、当時の天津市

義和団と思われる一団に向かって攻撃が開始され、 野戦瑠弾砲約50門で

制圧射撃を繰り返しながら前進を開始したとされています。



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  義和団と思われる一団とは、当時、市民なのか、義和団なのか なかなか判別

が難しく、 そう思われる一団に無差別攻撃を繰り返して行ったそうです。


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   明治33年7月14日には、天津は陥落し、4千近い死体が転がっていたと

 記録があります。


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    日本陸軍 広島第五師団は、海岸から、天津を攻略し、北京に進んで

    行く事になったのですが、日本陸軍が中央を撃破して、 その後に

    イギリスインド軍などが続いて行くという、そういう陣形であったそうです。



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  こう言う戦闘で、 多くの人々が戦闘に巻き込まれ、 義和団と間違えて処刑

されたり、 それはそれは殺戮が繰り返されていったようです。



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  どうしてそうなっていったのかと言うと、 義和団に 決まった軍服が存在せず、

 そのあたりの民衆の衣服とそう変わりが無く、見た目がわからなかったそうです。



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 現在風に言えば、 私服で戦闘行為に及んでいて、 都合が悪くなると、武器を

 捨てて、 庶民になりすまし、 夜になると また 武器を持って襲いかかるという

 感じで、 それ故に疑わしい人物は、襲われる前に 処刑してしまえと言うのが




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  当時の 現地の戦場であったそうです。

  こうして、一般人と軍人の区別の付かない戦闘が 夏の暑い天津で2週間ほど

  続き、 清国の軍勢は 射程外からの一斉射撃で崩壊し、北京へ、北京へと

  逃走していったとされています。


  【 明日に続く。】