第2255回 昭和の伝道師【 戦中、戦後のパイロットの物語 】

第2254話 北清事変 北京周辺での市街戦のこと。


                        2018年10月19日金曜日の投稿です。


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   【 前話の続きより。】



  1900年 明治33年の8月の初頭、北清事変の後半の清国側の戦術は、

接近戦に持ち込んで、 小銃に着剣という武装の西洋式軍隊に対して、切り込み、

弓矢での強襲と、こういう戦術で村や町の市街地の露地に相手を誘い込み、

建物の上から矢をいかけ、その後、 相手が負傷すると 刀で襲いかかるという

方法であったそうです。



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  当初はこれらの戦術は一時、効果があったそうですが、相手も警戒し、

その対抗策を立てていったのです。


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  その方法とはどう言う戦術であったのかと調べて見ると、例えばある村が

あったとします。

  イギリス側は、この村の3方向に 機関銃を据え付けます。

 そして、村に入る前に、無差別に村を砲撃し、その後、その村に放火して

 いったのです。



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   炎に巻かれて 逃げ出してきた村人に 無差別に発砲して 皆殺しに

  していったのです。

  彼等からすると、義和団なのか、支那人の人民なのか、 警戒が必要な

  人物なのか、そうでないのか 判別が付かないので、 村に入る前に、

  一方的に村を破壊し、向かってくる人物は徹底的に射撃していったのです。



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  こういう戦闘行為で、 義和団でない男や、女や、子供まで、戦闘に巻き込まれ

ていったのです。



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  村に入ったら、襲われる、 襲われる前に 距離を置いて 砲撃し、放火して

  村を焼き払い、 出て来る者を射殺していったのです。


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  こういう戦闘方法で、連合国側は被害が少なくなったのですが、反比例して

現地の村人が戦争に巻き込まれ、多くが殺害されていったとされています。



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  当時の記録によると、 これを見咎めたり、 止めたりする人はいなかった

そうです。

 こうして北京周辺の村や町は次々破壊されていき、 建物に潜んで 露地で

 西洋人を襲撃するという戦術は 通用しなくなっていったと伝えられています。

 このような戦況で、4万とも、5万ともいたとされる 義和団の軍勢は、どんどん

 追い詰められていったのです。

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   ちょうどその頃、 ロシア軍が一足先に 北京に迫り、その情報が西太后

 ある宦官の人物から報告されたそうです。

「 西太后さま 大変でございます。 いかがいたしましょうか。」と問うと、西太后

 
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  「 直隷総督の裕 禄を呼んできなさい。」と言うと、その宦官は、「 西太后

 裕 禄 様は 行方不明でございます。」 と言うと、「 なんですって。」

 と多いに驚き、 「 裕 禄を 捜しなさい。」と命令したと言われています。

 もうーーすべてが遅すぎたと言われています。

 強大な権力と、広い国土を持っていた 清帝国は 音をたてて崩れていった

 のです。



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  宮廷の中のことは、間者をいろんな所に配置して、監視を行い、謀叛の

対策としていたようですが、 西太后は 紫禁城の遠く離れた場所の事については

当時、よく把握出来てなかったようです。

 任せていた 直隷総督 裕 禄 は 西太后に処刑されることを予想して逃走し、

 当時、連絡か付かなくなっていたのです。

 


  【 明日に続く。】