第2497回 昭和の伝道師【 戦中、戦後のパイロットの物語 】
2018年12月2日 日曜日の投稿です。
【 前話の続きより】
残暑厳しい 北海道の函館の港で、 函館のみなさんに見ていただくという
そういう考えのもとに 私達もその競技に参加させていただく事になったの
です。
司令部の 誰が言い出したのかはわかりませんが、 愛國婦人会の人達に
親切にしていただいたら、なにかサービスしたくなったのかもしれません。
当時の写真をみなさんに紹介しながらお話しを進めていきます。
私達の八雲からは 15隻が出場し、 艦内にある12個分隊からの選抜
部隊と、 私達 海軍兵学校 第五十二期の少尉候補生が1隻、 海軍機関
学校 出身の少尉候補生で1隻、 海軍経理学校の少尉候補生で1隻の
合計15隻が参加したのです。
私が乗る 短艇の指揮官は 赤塚 栄一【 後の、白濱 栄一】少尉候補生
であったのです。
それは何故かというと、 八雲乗り組みの少尉候補生の中で 1番成績がよく
先任番号が若い番号であったのです。
候補生でありました。
メーカーと言っても、私も柴田候補生も 中の上程度の先任番号であったの
ですが、当時1番下っ端の地位であったのです。
柴田 武雄 少尉候補生は、以前紹介した 戦闘機屋の柴田 武雄 海軍大佐
の若い頃で、 あの 大西 瀧治郎 海軍中将と 殴り合いをしたという武勇伝
を持った人ですが、また 順番に紹介したいと思います。
記念品の贈呈を受ける事になっていったのです。
これが 当時の 記念品の贈呈式の様子の写真です。
何をいただいたのかは 当事者でないので 知らされませんでした。
ところで当時、「 おぃ 高松宮殿下の姿がみえへんがどないしたんかいな。」
と聞いてみると、 小声で柴田 少尉候補生が、「 ふちやん 浅間の乗組員
の噂では、 どうも 体調が悪いらしい、 食が進まず、周囲のお付き武官が
大変な思いをしておるとの噂を聞いたが、 さて どうなのか 本当の事は
よくわからん。」 と、言うのです。
その噂は、本当であったそうです。
【 明日に続く。】