第2501回 昭和の伝道師【 戦中、戦後のパイロットの物語】

第2500話 青森県 大湊要港部 司令官 四竈 孝輔 海軍少将のこと。



                           2018年12月6日木曜日の投稿です。



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  【 前話の続きより。】


  1924年 大正13年9月、 日本海練習艦隊の 浅間、出雲、八雲の3隻

 の艦隊は、北海道の函館港を出港して、津軽海峡を横断して対岸の下北半島

 の西側の大湊要港部【 おおみなと ようこうぶ】 という港にあっという間に到着

 したのです。



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  あっという間というのは、数時間と言う事で、途中、艦が上下して 気分が

 悪くなった 候補生が続出したのですが、私もその1人であったのです。

 「 もうーーあかん。」 と 思っていたら なんとか到着したのです。

 当時、9月でありましたので、まだ 良かったそうです。

 これが 冬場になると大風が吹いて、大波が立って、 それはそれは艦が波浪で

 上下して、前に進まないと教えていただいたのを覚えています。


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                  【 青森県 大湊要港部 庁舎 】


   実は、本当は函館を要港部に指定し、 五稜郭などを利用して 函館を

 日本海軍の基地にする計画があったのですが、ロシア海軍が攻めて来た場合

 に、沿岸から砲撃されると弱いという欠点があって、 対岸の陸奥湾に囲まれた

 大湊が要港部に指定を受け、海軍の基地として整備されていったそうです。



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  この下北半島は、戊辰戦争で敗戦した 会津藩がこの地に国替えとなり、

三万石で入封したのですが、実際は3千石にも満たない 未開の地であった

そうで、多くの会津藩士が病死したり、餓死したりしたと伝えられています。

私が訪れた当時は、数万人程度の人口がある海軍で経済が成り立っている

町でありました。



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   【 大湊要港部 司令官  四竈 【しかま】孝輔 海軍少将 宮城県出身





 当時の大湊要港部の司令官は誰であったかというと、 四竈 【 しかま 】孝輔

 海軍少将でありました。

 四竈 と書いて しかま と読み、 仙台藩 家老 四竈 家の一族の出身で

 家柄の良い人でありました。


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                 【 海軍 伏見宮 博恭 親王殿下 】


 四竈 閣下が後に有名になったのは、 例の前話で紹介した 皇族の伏見宮

 博恭 親王殿下の 皇族附 武官 で、中将で退役したその後も伏見宮家と

 お付き合いがあったそうです。

 そして 何が有名であったのかというと、仲人を進んでする人であったそうです。

 有名な 縁組みとして 広く戦後知られている代表格は、 連合艦隊司令長官

 になる 若い頃の 山本 五十六 海軍大尉の縁組みを仲人したことでも知られ

 ています。



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               【  山本 五十六 海軍大尉の結婚写真  】


  もう一つ有名なのが、 この山本 五十六さんも 仲人好きの人として知られて

 いて、 有名な縁組みとして、 ミッドウェイ海戦で戦死された 山口 多聞 閣下の

 縁組みを仲人されたと言い伝えがあります。


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              【 山口 多聞閣下と 妻の 孝子 夫妻の写真 】


  どういう事かと言うと、 山口 多聞 閣下の 妻の 孝子さんは、四竈 孝子

  さんと言われ、 四竈 孝輔 海軍中将の姪にあたる人であったと言い伝えが

  あります。

  孝子さんは立派な人で、英会話も上手で通訳は必要なかったそうです。

  学問にも優れていた女性であったそうです。 

  
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    当時、私達 海軍兵学校 第五十二期の少尉候補生の八雲乗組のメンバー

   は、「 次は 大湊のどこに連れて行かれるんかいな。」 と、当地の見学を

   楽しみにしていたのです。

   ところが 前話で紹介した 高松宮殿下のご病気で そうはいかなくなっていった

   のです。


   【 明日に続く。】