第2505回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】
2018年12月10日月曜日の投稿です。
【 前話の続きより。】
前話で紹介した 日本海軍三年式機砲と呼ばれる、 後の陸軍で言う
向けて行われたのです。
【 大正13年撮影 当時の大湊要港部の砂浜】
それは何故かと言う事は当時 私は若かったので そこまで考えなかった
のですが、 振り返って見ると、「 跳弾。」 と書いて、 ちょうだん と読んで
いたのですが、 射撃をした弾頭がどこかで跳ねて、不本意な場所に飛んでいき
流れ弾による事故が発生する事を恐れて、 艦艇から 海へ向かって撃つことに
なっていったと思われます。
おそらく、先任参謀の日暮 豊年 海軍中佐が 事故を心配して 砂浜での
射撃を許可しなかったのだと思っています。
【 大正13年撮影 練習艦 浅間での 三年式機砲 射撃教練状況 】
当時、 私は射撃をさせてもらえず、遠くから見ている程度であったのですが
艦の甲板で柔道の稽古で使用する畳を三年式機砲の右側面に 畳の裏を
機砲側にして、 射撃をした後に 薬莢が飛ぶのをそこで受けて、 その薬莢
が無くならないようにすべて回収する係がいまして、全部拾い集めるわけです。
この薬莢が 海にでも転げ落ちると それはそれは大変な事になるわけでして
神経を使っての教練であったのです。
目標は、一斗缶をそうーー距離にして 500 いや、600メートルは離れてい
たか浮かせて射撃するわけです。
「 右舷 3時方向、 敵影、 距離600 教練 射撃 はじめーーい。」
と、号令がかかると、 「 タン タン タン タンーー。」 と乾いた発射音が
していたのですが、 海の上に プカプカ浮いて 動いているので なかなか
難しかった様です。
早く沈めた部隊が良しとされていたようですが、結局、八雲の私達は
浅間や 出雲の部隊に引けをとって負けてしまい、大目玉を食らうことになって
いったのです。
私は見ていただけですが、部隊全員連帯責任というわけです。
ところで、海軍では 必ず 反省会というのがあって、何故 自分達が
評価が低かったのかと言うことについて、 答えを 分隊長に出して報告し、
改善する必要があったのです。
「 よろしい。」 と言うまで、何度でも、何度でも 報告しなければならなかった
のです。
その原因は、「弾頭の垂れ。」を計算していなかったの一言につきるのです。
「 弾頭の垂れ。」 と言う言葉は戦後使うことがないのですが、火薬を爆発
させて 弾頭を発射して 相手に到達するまでの時間を計算して その時間に
相手が進むであろう距離を計算して、 少し相手の前を射撃するのです。
これを 「 狙い越し。」 と呼びます。
相手の戦闘機を照準機の真ん中に入れて射撃する映画のシーンがありますが
あれはウソで、 射撃を行った事のない演出家の作ったシーンで、 実際は
相手の前、何もいない場所に狙いをつけて射撃を行うのです。
クレー射撃の選手が、少し前を狙って引き金を引くことによく似ています。
威力の低い弾頭で射撃を行うと、大空ではよくわかるのですが 途中から
弾が下に落ちていくのです。
距離が近いとそうでもないのですが、 距離が遠い目標を射撃すると、弾の
威力がどんどん低下し、途中から下に下に落ちて行ってしまう現象を当時
弾が垂れる と表現していたのです。
三年式機砲が昭和になって消えていったのは、 弾垂れがあるからでした。
弾の威力が小さいので 反動が少なく、銃身への負担も低く設計してあって、
反面、 弾が遠くに飛ばないという欠点があったのです。
ご存じのように、 弾は遠くに飛ばすほど、水平射撃の場合、威力が低下する
現象が発生します。
そういうことがわかるまで 何度でも、「 だめぃーーっ。」 「 やり直し。」と
なって行って、大変な思いをする事になっていったのです。
紹介したような事情で、陸軍からも海軍からも 三年式機銃は射程が1700
メートルという性能であったのですが、 威力不足と言う事で 随時退役させられ
昭和8年 こと1933年に7,7ミリの強力な弾頭を発射できる 九十二式重機関
銃に交換されていったのです。
公称が射程1700メートルであったのですが、当時の6,5ミリ弾頭では500メート
ル程度が限界であったのです。
相手に装甲板でもついている 装甲車やトラックであると、撃っても弾が弾かれて
相手にダメージを与えることが出来なかったのです。
その後、私達 八雲の部隊は 制裁訓練という名前の遠距離走を大湊の砂浜で
行う事になっていったのです。
どうして 自分がこんな事を行わなければならないのかと、当時思ったものです。
私達の苦行は、それはまだ始まったばかりであったのです。
【 明日に続く。】