第2506回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】

第2505話 日本海練習艦隊 帝国海軍軍人の心得のこと。


                      2018年12月11日火曜日の投稿です。



イメージ 1



  【 前話の続きより。】

  「 ぷぷっぷっぷーぅ ぷっぷっぷっぷーーーーっ ぷぷぷっぷっぷっぷーっ。」

  1924年 大正13年9月 青森県の大湊要港部 という軍港を私達、海軍

  兵学校 第五十二期の少尉候補生を乗せた 日本海練習艦隊は碇を

  引き揚げて、陸奥湾津軽海峡に向けて動き出したのです。



イメージ 3




 ところで、 練習艦 浅間の 軍医長 内田 尊雄 軍医少佐と、 須藤 巌 

 軍医大尉と、 倉橋 節雄 軍医中尉の3名の意見具申で、高松宮殿下に

 大湊の海軍病院で落ち着くまでご養生いただき、陸路 お付き武官と一緒に

 東京へ鉄道で移動していただこうという意見は、 練習艦 浅間の当時の艦長

 であった、 七田 今朝一 海軍大佐を通じて、練習艦隊司令部に意見具申

 されたのです。


イメージ 4




   私達が 制裁訓練で砂浜を駆け足していた当時、 極秘に 司令部で検討

 され、 浅間の艦長 七田 今朝一 海軍大佐の意見具申は 却下されたと

 言い伝えがあります。



イメージ 5



         【 練習艦 浅間 艦長 七田 今朝一 海軍大佐 】





   3名の軍医は、高松宮殿下の御身体を大切に考え、3名協議の上、艦長に

   対して、よかれと思い 意見を具申したのですが、彼等の判断は結果的に

   正しかったとされています。

   当時の私達には こんな教育が行われていて、 当時の練習艦は12個の

   分隊に別れていて、 分隊長は 海軍少佐 または 海軍大尉が務めること

   になっていたのです。

   その配下には、多くの将校、下士官、水兵が存在していたのですが、

   「 お仕えする人の身になって物事を考え勤務するように。」 との指導が

   行われていたのです。


イメージ 6



   戦後の現在でわかりやすく例えると、 社員は、管理職の人の身になって

   物事を考え 勤務するように。 

   そして、管理職は、 会社の経営者の身になって物事を考えて勤務するように。

   とでも表現すると わかりやすいと思います。

   それは、海軍のためでも、司令官のためでもなく、自分の為であると教えられ

   ていたのです。

   そして、 「あることを行うのに、 自分はこうしたらよいと思います。」 と言う

   ことを 上司の上官に申し上げることは 意見具申 という名前で認められて

   いたのです。

   そういう事情で、 七田 海軍大佐は 練習艦隊司令部に対して 高松宮殿下

   のお体を心配されて 意見具申を行われたのです。


イメージ 7


             【 大正13年撮影 高松宮宣仁親王殿下 】



  海軍大佐と言えども、 司令部に Aですと、意見具申し、 却下されたら、

  つまり、「 命令。」 と言われると その命令が 自分の意見と正反対の

  決定でも、 自分の意見として それを遂行することが求められたのです。




イメージ 2



  命令に反抗することを 抗命【 こうめい】 と読んで、これを行うと当時は、

  軍法会議が開かれ、 海軍の中で略式裁判を行い、有罪となると 銃殺刑

  に処せられたのです。

  そういう事情で、 自分の意見具申と180度違う命令が発令され、高松宮殿下

  をそのまま艦内にとどめて 練習艦 浅間 は 出港していったのです。




イメージ 8




   当時の練習艦隊 司令長官 古川 鈊三郎 海軍中将は、皇室の品位を保つ

  という言葉を第1に、高松宮殿下が練習艦から降りて 東京に陸路移動する

  という意見具申を却下されたのです。

  司令長官は、 司令長官で深いお考えがあったようです。

  当時、この話しは極秘扱いで、練習艦隊司令部の幕僚と 練習艦 浅間の

  一部の幹部しか知らないお話しで、 当時私達は、「 次は どこに連れて行

  かれるんかいな。」 と、 周囲とお話しをしていた記憶があります。


イメージ 9



  しばらくすると、 津軽海峡から太平洋側に出たのか、 海が荒れて、

 私達の乗っていた 練習艦 八雲は 上にあがって 下に落ちて、ずしーん

 と揺れだし、少尉候補生はみんな 船酔いになって行ったのです。



 【 明日に続く。】