第2512回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】
2018年12月17日月曜日の投稿です。
1924年 大正13年9月、 私達 海軍兵学校 第五十二期の少尉候補生を
沌としていたのです。
「 何も決定できない 帝国議会。」 「 どうして、速やかに有効な政策を打たな
いのか。」 「 何を 連中はやっておるのか。」 と言う批判が多かったのです。
私より年下ですが海軍兵学校が同期で、彼の方が成績がよかったので
は、本人曰く、「 俺は イライラするところが欠点だ。」 と、私に言っていたので
すが、 彼は 頭の回転が 世間の人より早いので、 これをやろうと思うと、
進行状況が遅かったり、 思う様に進まない時、イライラをつのらせるわけです。
それは 誰でもそうであって、 大正13年当時は、 臣民 と呼んでいた
のですが、戦後で言う国民は 政府に対してイライラをつのらせていたのです。
それは、海軍や陸軍の将校で、頭の良い人達は、「 何をやっているのか。」と
思うわけです。
どうしてそうなっていくかというと、 帝国議会が空転して 何も決まらなかった
のです。
艦内の 佐官クラスが集まる食事の席では、「 もう少し何か出来ないのか。」と
いう雑談が多かったのです。
関東大震災で多くの人が亡くなったり、重傷を負ったり、家が倒壊したり、
こういう天災に対して、機動的に対処していければ良かったのですが、当時の
大日本帝国議会は、空転して なにも採決できなかった状態が続いていたの
です。
その原因は、 高橋 是清 さんの政策と面倒見の悪さから、与党 政友会が
分裂して 少数政党が乱立し、 法案の採決の時に安定多数を確保出来なかった
というのが原因でした。
議会ですから 投票するわけです。
与党が少ないので、 反対票が多く出て、何も 法案が通過しない状態が続いて
いたのです。
臣民 こと、 国民から見ると 早く有効な救済策などを打ち出して 政治を進めて
ほしいとの要望が多数寄せられていた最中、 当時の議会は「賛成したら いくら
くれるのか。」 などと、 次の選挙資金の提供を求めたりする議員が多かったの
です。
どうしてそうなるかというと、当時 衆議院の選挙があると、 投票人のところを
訪れて、 封筒を渡して 投票をお願いするというのが当たり前であったのです。
そうすると たくさんの現金が必要となります。
そんな時代に、人々の注目を集めたのが、 遠く ヨーロッパの学校の教員で
即断、 即決、 国民の為の政治を掲げて行動を起こした事が 新聞で広く
紹介されていったのです。
つまり 彼は 貴族でもなく、庶民で、学校の先生で、 子供を労働から解放し、
義務教育を提唱し、そして 場所代を請求してくる暴力団と対決し、人々からの
搾取をやめさせようと動き、 国民は自信をもって仕事に邁進しなければならない
と呼びかけ、語り、 自信を得るには まず スポーツをする事が1番であると、唱え
て、学校の授業に、初めて体育の授業を作っていったのです。
こんな お話しが伝わってくると、 「日本にも こういう強い指導者が内閣総理
大臣になって、 即断、即決、臣民のための政治を行う人が必要である。」と言う
人が増えていったのです。
何も決まらない 帝国議会など やめてしまえと言うわけです。
ちょうど 私達が海軍兵学校を卒業した大正13年当時、 そういう世論が
強かったのです。
経済恐慌、 東北地方では 子供の売り買い、 少女の人身販売が当たり前で
村役場が、「 よい女がいる、買わないか。」 と、 村役場の役人が業者に
仲介していた当時、 「 これを何とかしてほしい。」と、唱える人が増えていった
のです。
「 1日も早く、行政の力で 国を建て直して、 穏やかな平穏な暮らしがくる
ようにしてほしい。」と考えるのは、 当時、私もそうでしたし、みんながそうで
あったのです。
何も決定できない帝国議会などやめて、 新しい 庶民の暮らしの為の政治を
行ってくれる ムッソリーニ先生の様な 強い政治家を求めていたのです。
これは、当時、イギリスでも、フランスでも、ドイツでも そうであったのです。
少数政党が乱立して、与党が安定多数を得ていない議会というのは どこの国
も空転して 何も決定できない そういう国が多かったのです。
【 明日に続く。】