第2513回 昭和の伝道師 【 戦中、戦後のパイロットの物語】
2018年12月18日火曜日の投稿です。
【 政友会 総裁 高橋 是清 農商務大臣 】
【 前話の続きより。】
以前、詳しく紹介したのですが、 原 敬 内閣総理大臣が、「 このまま陸軍の
言うなりにシベリアに税金を投入していると 来年あたり経済破綻する。」と言って
シベリアから撤退を模索していて、 中岡なる男に東京駅で暗殺されたのですが、
おおよそ 陸軍のシベリア撤退反対派の将校が黒幕であったとされています。
その後、 当時の与党の政友会の総裁になったのが 高橋 是清 さんでした。
彼は、内外ともに知られた金融の専門家で優秀な人でしたが、お金を広く集めて
配下に分配する、つまり 配下の議員に資金を配って、選挙の面倒をみるという
ことが下手な人であったそうです。
それは、反面 言い方を変えればクリーンな政治家であったとも言われています。
そんな行動を見て、与党政友会の議員が、「 高橋 是清の御輿は担げない。」
と、分裂していったのです。
【 当時の 国会議事堂 】
簡単にわかりやすく表現すると戦後の自由民主党の派閥がバラバラに分裂して
政党となり、与党で無くなっていったと表現するとよいと思います。
そして 少数政党が乱立して、 野党 憲政会が 第一党になり、政友会は野党に
転落していき、 次々 議員が去っていったのです。
「 金を配らない人にはついて行けない。」 と、 こうなっていったようです。
【 内閣総理大臣 加藤 高明 子爵 】
ところで 野党から与党になった 憲政会も議員数が少なく、絶対多数の議員数
に達していなかったので 単独で法案の採決が出来なかったのです。
そこで いろんな乱立した政党に 憲政会の総裁であった 加藤 高明 子爵は
現金をその都度渡して、いろんな議員に協力をお願いしていったのです。
で選ばれた 内閣総理大臣で、 財閥 三菱の 創業者 岩崎 弥太郎氏の娘婿
でありました。
その裏には、 三菱財閥の現金を、 その時、その時の要所、要所で上手に使い、
帝国議会を動かして行こうとしていたそうです。
どこの議員も、選挙には金が必要で、その都度、 その都度、 現金を持参
する 三菱の要望に応じていったのです。
そして、 政友会の高橋 是清さんや、 分裂していった 議員達も、三菱に
協力していったのです。
それが 大正13年6月から9月の日本の政界の流れでありました。
ところが、 大日本帝国の中に、 戦後のイタリア こと 当時の イタリー王国の
自ら命を張って世の中を変えていこうという考えになっていった人達が大勢
動き出していったのです。
なる指導者が、 フェラーと名乗り、 国民の為の素早い決断を行い、行政を
進めていく、 こういう新聞記事や雑誌の記事を読んで、まねをしようという人が
イギリスにも、アメリカにも、フランスにも、ドイツにも、いろんな国に出て来たの
です。
とこう思う様になっていったのです。
暴力団のオヤジ、 つまり ドン と呼ばれる人達が 大臣や、警察を操り、
庶民から、税金以外に、 上納金を搾り取り、 そして 今度は教会が、お布施
を搾り取り、 労働意欲が低下し、慢性的な経済不況が続き、 子供を出産して
も間引きするのが当たり前の貧困のイタリー王国で、彼は出産を奨励し、間引きを
禁止し、 子供を保護していったのです。
子供を労働から解放し、 義務教育を開始し、「 みんな 自信を持って 仕事に
はげめ。」と スローガンを掲げ、 暴力団が庶民から上納金を搾取するのを禁止し、
当時、ミリューと呼ばれていた マフィアの組織と対決していった ムッソリーニ
先生の勇猛果敢な行いは、世界に広がって伝わって行ったのです。
大勢動き出していったのです。
たりしたようです。
戦後、ムッソリーニという人物は 悪人とされていましたが、大正13年当時は
庶民の英雄であったのです。
していこうという こういう思想は危険思想とされていったのです。
後の 治安維持法という法律を作ろうとする動きは、 大正13年9月頃から
動き出していったのです。
【 明日に続く。】