第2531回 昭和の伝道師【 戦中、戦後のパイロットの物語 】

第2530話 ヒットラーと バイエルン人民党のこと。


                        2019年1月5日土曜日の投稿です。




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   【 前話の続きより。】


  ヒットラーが不法入国して ドイツ人でもないのに、ドイツ人になりすましていた

とか、 都合の悪い過去は 1933年1月に ヒットラーによって バイエルン州

に ハインリヒ ヒムラー が バイエルンの警察長官として送り込まれると、都合の

悪い事は 抹消され、 余計な事を知る人は 消されていったとされています。



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           【 ヒットラーの懐刀と呼ばれた ハインリッヒ ヒムラー


  そして ヒムラーによって 歴史が作り替えられ、発表され、それを繰り返し

 宣伝する事で本当の出来事が隠されていき、 後から作られた歴史のために

 出来事と、出来事の 道理、 つじつまがあわない部分が戦後わかってきた

 そうです。


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 そして 大きな発見は 1980年代に発表された、ミュンヘン一揆の写真は

 ヒムラーの命令で作られた合成写真であったこともわかってきました。

 それでは、 ヒットラーミュンヘン一揆を計画したとされているのは実際とは

 少し違っていて、一揆を計画したのは ドイツのベルリン政府から独立して

 国家として バイエルン王国の王政復古を行おうとする 旧バイエルン王国

 貴族グループと、 独立を目標とするが 庶民中心の政治を目的とするグループ

 などが集まる政党 バイエルン 人民党という政党の実力者数人が集まり、

 ヒットラーの右腕と当時言われていた 元外交官 リヒターに誘いをかけ、いろんな

 勢力が一揆に参加する事になっていったようです。



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 これらは イタリー王国のムッソリーニのローマへの進軍をモデルにバイエルン

人民党が主宰し、 それにヒットラー達や 退役軍人の組織、 警察署の警官、

裁判所の判事、書記官、事務官、衛視なども加わっていたとされています。




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      【 元裁判官で人民党の党員であった フランッ ギュルトナー】


 元 陸軍大尉で 裁判所の一揆参加者を手のひらで動かしていたのが フランッ

ギュルトナー などの バイエルン人民党の幹部達であったとされています。

 そして ミュンヘン一揆の数ヶ月後に バイエルン人民党による無血クーデター

 があったとされています。



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     【 ヒットラーを見せしめに死刑にするよう圧力をかけた カール総督】



   バイエルン人民党の幹部達は、 このままでは自分達がベルリン政府や

 カール総督らに潰されてしまうと考え、 何某かの方法で、カール総督を辞任に

 追い込み、 さらに数ヶ月後の 1924年5月、 つまりヒットラー達が、刑務所に

 入れられた月に、 カール総督の下で バイエルンの首相を務めていた、オイゲン

 フォン クニング首相を辞任に追い込んで政権を奪取したそうです。



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  どういうことかというと、 ヒットラー達を処刑しようとしていた人達が、失脚し、

 ミュンヘン一揆を計画し、絵を描いた バイエルン人民党に政治の実権が

 移ったとされています。

  そして、 裁判所の裁判官や書記官や事務官や衛視を動かしていたフランッ

 ギュルトナー元陸軍大尉が バイエルン政府の法務大臣に就任し、ヒットラー

 の保釈手続きを進めていった書類が戦後、西ドイツで発見されたそうです。




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   バイエルン人民党の ハインリヒ ベルトは、 カール総督の一派を追い落と

 すと、ベルリン政府と対決し、 ベルリンのワイマール共和国とバイエルン

 対等な立場の国で、 独立自治を要求していったとされています。


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   本来 ミュンヘン一揆は成功するはずだったのですが、 カール総督や

 ザイザー警察庁長官がベルリン政府と連んで裏切り、一揆に参加していた警官

 と鎮圧に出て来た警官とで撃ち合いとなり、流血騒ぎに発展、 協力する予定で

 あった 陸軍部隊も模様眺めに徹して動かず、一揆は失敗したかに見えたの

 ですが、 バイエルン人民党は、裁判所の裁判官、書記官などを協力させ、

 自分達に都合が良いように 見せかけの裁判を行ったのです。

 だから、法廷に 新聞記者をわざと多数呼び込み、ヒットラーに4時間以上も

 わざと演説させ、 カール総督が変節して ベルリン政府に屈して、バイエルン

 売り渡そうとしていると多いに宣伝し、 辞任に追い込み、その配下の役人を

 追い落としていったのです。



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 通常、 逮捕された国家反逆罪の囚人 アドルフ ヒットラーが 4時間以上も

 法廷でしゃべり続けるというのは ありえない出来事です。

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  元 裁判官で 法務大臣であった ギュルトナー元陸軍大尉は、自分の協力者

 であった 一揆に参加した 裁判官、書記官、事務官、衛視、 そして警察官など

 を見せかけの裁判を行う段取りをして、 数ヶ月後に、職場に復帰させていったの

 です。

  こうして 1924年 大正13年5月、 ドイツのバイエルン州では、バイエルン

 は1つの独立国であり、イギリスやアメリカやフランスによってベルリンに作られた

 政府 通称 ワイマール共和國とは 違い、独立国であるとして 自治権を主張

 していったのだそうです。


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   そして バイエルン人民党は、 バイエルンの政治を数年間取り仕切り、

 ミュンヘン一揆に参加した人達を 早々に保釈という名前の釈放を行って

 行き、 彼等を元の職場に復帰させていったのです。

 そして、各地に内乱の噂が飛び交っていた当時、 バイエルンに軍事介入すると

 ドイツ全体が 内乱状態に発展することを恐れた ベルリン政府は、バイエルン

 人民党の自治を認め、その代わりに反乱を起こさない密約を結び、 ヒットラー

 の処置はバイエルンが決定する事項であるとの方針で、 ヒットラー達が保釈され

 ても苦情の申立などの中央政府の介入は行わなかったようです。


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    こうして アドルフ ヒットラーは、 ギュルトナー法務大臣が用意した

  見せかけの裁判で、英雄扱いを受けた後に、 禁固5年という判決の後、

  法律に基づけば、通常なら出身国のハンガリーオーストリー帝国に国外追放

  処分とされるところを それを行われず、 わずか半年の 刑務所での特別扱い

  の生活の後に、 保釈されるという前代未聞の出来事で また 娑婆に戻って

  きたそうです。


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   すべて バイエルン州政府 法務大臣 フランッ ギュルトナー元陸軍大尉と、

   首相であった ハインリッヒ ベルト という人の根回しによって行われたという

   ことがわかってきたそうです。

   

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   後に バイエルン人民党は 国家社会主義ドイツ労働者党に吸収され、

  ナチスの傘下のバイエルンの組織となり、 フランッ ギュルトナー元陸軍大尉

  は、 ヒットラー内閣の閣僚として 入閣したとされています。



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    こうして ヒットラー達の刑務所暮らしの謎は、 当時のバイエルン

  政府が、 バイエルン人民党の内紛、 つまり 王政復古派と、ベルリン政府

  追随派とに 1923年のミュンヘン一揆を境に 対立が激化し、警察や、

  裁判所を味方につけた 王政復古派が ベルリン政府追随派を追い落とし、

  ヒットラー達に 優位に働いたということが戦後わかってきました。



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  10年程して、 ヒットラーがベルリン政府の首相になると、1933年 昭和8年

 バイエルン警察庁長官に ヒムラーが着任し、 彼の手で、ヒットラー首相の

 命令と称して、 報復が静かに行われだしたそうです。



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   ミュンヘン一揆で裏切ったとされた カール 元総督は、斧で手足を切り

  取られ殺害され、沼に捨てられているのを発見されたと記録があります。

  司法の独立を立て前とした 裁判官は 実は バイエルン人民党の言うなりで

  見せかけの裁判を行い、 これが 第2次世界大戦の素因になって行ったという

  ことが20世紀の後半にやっとわかってきたそうです。


  【 明日に続く。】