第2531回 昭和の伝道師【 戦中、戦後のパイロットの物語 】
2019年1月5日土曜日の投稿です。
【 前話の続きより。】
ヒットラーが不法入国して ドイツ人でもないのに、ドイツ人になりすましていた
悪い事は 抹消され、 余計な事を知る人は 消されていったとされています。
そして ヒムラーによって 歴史が作り替えられ、発表され、それを繰り返し
宣伝する事で本当の出来事が隠されていき、 後から作られた歴史のために
出来事と、出来事の 道理、 つじつまがあわない部分が戦後わかってきた
そうです。
ヒムラーの命令で作られた合成写真であったこともわかってきました。
少し違っていて、一揆を計画したのは ドイツのベルリン政府から独立して
貴族グループと、 独立を目標とするが 庶民中心の政治を目的とするグループ
などが集まる政党 バイエルン 人民党という政党の実力者数人が集まり、
ヒットラーの右腕と当時言われていた 元外交官 リヒターに誘いをかけ、いろんな
勢力が一揆に参加する事になっていったようです。
人民党が主宰し、 それにヒットラー達や 退役軍人の組織、 警察署の警官、
裁判所の判事、書記官、事務官、衛視なども加わっていたとされています。
【 元裁判官で人民党の党員であった フランッ ギュルトナー】
元 陸軍大尉で 裁判所の一揆参加者を手のひらで動かしていたのが フランッ
ギュルトナー などの バイエルン人民党の幹部達であったとされています。
があったとされています。
【 ヒットラーを見せしめに死刑にするよう圧力をかけた カール総督】
バイエルン人民党の幹部達は、 このままでは自分達がベルリン政府や
カール総督らに潰されてしまうと考え、 何某かの方法で、カール総督を辞任に
追い込み、 さらに数ヶ月後の 1924年5月、 つまりヒットラー達が、刑務所に
入れられた月に、 カール総督の下で バイエルンの首相を務めていた、オイゲン
フォン クニング首相を辞任に追い込んで政権を奪取したそうです。
どういうことかというと、 ヒットラー達を処刑しようとしていた人達が、失脚し、
移ったとされています。
そして、 裁判所の裁判官や書記官や事務官や衛視を動かしていたフランッ
の保釈手続きを進めていった書類が戦後、西ドイツで発見されたそうです。
バイエルン人民党の ハインリヒ ベルトは、 カール総督の一派を追い落と
すと、ベルリン政府と対決し、 ベルリンのワイマール共和国とバイエルンは
対等な立場の国で、 独立自治を要求していったとされています。
と鎮圧に出て来た警官とで撃ち合いとなり、流血騒ぎに発展、 協力する予定で
あった 陸軍部隊も模様眺めに徹して動かず、一揆は失敗したかに見えたの
ですが、 バイエルン人民党は、裁判所の裁判官、書記官などを協力させ、
自分達に都合が良いように 見せかけの裁判を行ったのです。
だから、法廷に 新聞記者をわざと多数呼び込み、ヒットラーに4時間以上も
わざと演説させ、 カール総督が変節して ベルリン政府に屈して、バイエルンを
売り渡そうとしていると多いに宣伝し、 辞任に追い込み、その配下の役人を
追い落としていったのです。
通常、 逮捕された国家反逆罪の囚人 アドルフ ヒットラーが 4時間以上も
法廷でしゃべり続けるというのは ありえない出来事です。
元 裁判官で 法務大臣であった ギュルトナー元陸軍大尉は、自分の協力者
であった 一揆に参加した 裁判官、書記官、事務官、衛視、 そして警察官など
を見せかけの裁判を行う段取りをして、 数ヶ月後に、職場に復帰させていったの
です。
は1つの独立国であり、イギリスやアメリカやフランスによってベルリンに作られた
政府 通称 ワイマール共和國とは 違い、独立国であるとして 自治権を主張
していったのだそうです。
行き、 彼等を元の職場に復帰させていったのです。
そして、各地に内乱の噂が飛び交っていた当時、 バイエルンに軍事介入すると
ドイツ全体が 内乱状態に発展することを恐れた ベルリン政府は、バイエルン
ても苦情の申立などの中央政府の介入は行わなかったようです。
見せかけの裁判で、英雄扱いを受けた後に、 禁固5年という判決の後、
処分とされるところを それを行われず、 わずか半年の 刑務所での特別扱い
の生活の後に、 保釈されるという前代未聞の出来事で また 娑婆に戻って
きたそうです。
首相であった ハインリッヒ ベルト という人の根回しによって行われたという
ことがわかってきたそうです。
は、 ヒットラー内閣の閣僚として 入閣したとされています。
政府が、 バイエルン人民党の内紛、 つまり 王政復古派と、ベルリン政府
裁判所を味方につけた 王政復古派が ベルリン政府追随派を追い落とし、
ヒットラー達に 優位に働いたということが戦後わかってきました。
10年程して、 ヒットラーがベルリン政府の首相になると、1933年 昭和8年
命令と称して、 報復が静かに行われだしたそうです。
取られ殺害され、沼に捨てられているのを発見されたと記録があります。
司法の独立を立て前とした 裁判官は 実は バイエルン人民党の言うなりで
見せかけの裁判を行い、 これが 第2次世界大戦の素因になって行ったという
ことが20世紀の後半にやっとわかってきたそうです。
【 明日に続く。】