第2546回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】

第2545話 日本海練習艦隊 練習艦 出雲 少尉候補生部隊のこと。



                      2019年1月20日 日曜日の投稿です。





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   【 前話の続きより。】


 1924年 大正13年の10月 私達の練習艦隊の部隊は 伊勢神宮に参拝

することになったのですが、 その参拝の部隊の順序は 宇治山田駅に早く

到着した順番で部隊は進んで行ったのです。

 一番に進むことになった 練習艦 出雲の部隊は、私の生涯付き合いをしてい

た源田 實 少尉候補生が乗艦していた部隊であったのです。



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        【 練習艦 出雲 乗組 源田 實 少尉候補生 広島県出身 】




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                         【 練習艦 出雲 】



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         【 大正13年撮影 練習艦 出雲 乗組員 集合写真】


  この練習艦隊の3隻の練習艦の1隻の出雲【いずも】 の艦長は、海軍大佐

  重岡 信治郎 海軍大佐 【 海軍兵学校 第33期 】でありました。



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        【 出雲艦長 重岡 信治郎 海軍大佐 愛媛県出身 】


  出雲の艦長の 重岡 信治郎 海軍大佐は後に、海軍中将まで進まれた軍人で

 海軍の中では、潜水艦屋 と呼ばれていた 潜水艦隊の重鎮であったのです。

 この 練習艦 出雲の部隊に 海軍兵学校 第五十二期の少尉候補生部隊

 74名が乗艦していたのです。




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    【 大正13年撮影 練習艦 出雲 少尉候補生 集合写真 】


  この74名の中の一番 ハンモックナンバーが若い候補生は、五十二期の

 内田 成志 候補生【 大阪府 府立第1中学 出身 】でありました。



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 次席 【2番目の候補生】の候補生が、 有馬 高泰 候補生で、私達の先任

 候補生の赤塚 栄一候補生と同郷の 鹿児島県 明治学院中学卒の候補生で

 以前紹介した 赤塚研究会のメンバーであったので、 私達の八雲の先任

 候補生であった 赤塚 栄一 【後の白濱 栄一】 候補生から見ると、ずいぶん

 残念で 先を越されて 悔しかったそうです。

 先任番号が6番目が 彼等より同期ながら 1歳年下の 源田 實 候補生で

 ありました。

 8番目が 私と同郷の奈良県の出身で、一緒に海軍兵学校にやってきた

 小池 伊逸 候補生 【 後の連合艦隊 水雷参謀】で、 48番目が以前紹介した

 日本海軍で初めて上海上空で敵戦闘機と交戦し、初めて撃墜した生田 乃木次

 少尉候補生でありました。


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      【 日本海軍で初めて敵戦闘機を撃墜した 生田 乃木次 候補生】



  74名の出雲の部隊の中では、彼が金鴲勲章を初めて受章し、出世した

 お話しは以前紹介したとおりです。

 ご婦人にも 非常にもてて、 ご婦人に優しい男でありました。



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                  【  晩年の 生田 乃木次 元海軍少佐 】


    私は 海軍兵学校で初めて 江田内の空を飛んだ男ですが、彼のように

   戦闘機に乗り、功名を立ててみたいものやと、昭和7年頃、羨ましく感じて

   いたのです。

   彼の空中戦での アメリカのパイロットとの死闘の状況を 私達は、大西

   瀧次郎 海軍大佐と一緒に、 上海まで出張して 調査した 源田 實 

   海軍大尉から 聞く事になるのですが、 そのお話しは 順番にまた紹介

   したいと思っています。


 【 明日に続く。】