第774回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】
第773話 海軍兵学校 正木 生虎 生徒の事。 2014年4月5日土曜日の投稿です。
やっと、先任の福元 義則生徒が上の見張り台に上がり、その前の生徒の
黒田 吉郎 生徒 【 後の、戦艦 大和 砲術長 海軍中佐 日彰館中学卒
広島県吉舎町出身 】が姓名申告しているところでした。
又、後日紹介しますが、 黒田 吉郎 生徒は、 戦艦大和の砲術長として活躍して
生還し、貴重な体験談を、戦後の世の中に語っていく事になります。
当時の記憶によると、 中央に、そう3人程度立てられるスペースがありまして、
さらにそこから、3メートル程度上であったか、もう少しありましたか、 2人程度、
立てられるスペースがありました。
下の井上 武男生徒が、「 うっうっ、指がちぎれそうダッペ。」と言うので、「 あと
少しや、がんばるんや。」と、声をかけて、 やっと私の番になったのです。
中段のさらに4メートル程度上で、 下を見るだけで怖いわけです。
目を閉じて、「 海軍兵学校、 淵田 美津雄であります。」 と大声でさけぶと、
下から、 「 なにか、貴様のその姿は、 セミのようにしがみついていては
聞こえんぞ。」 と 何度も言われまして、 仕方がないので、右手で支柱を持ち、
左手をはなして、 「 海軍兵学校 淵田 美津雄であります。」と 叫ぶと、
こんどは、 「 貴様の生年月日は、何か。」と、 問がありまして。
「 明治35年12月3日であります。」と、大きな声で叫ぶと、 こんどは、「 貴様は
何年の生まれか。」と、問われたので、「 寅【トラ】年であります。」と、叫ぶと、
やっと「 次の生徒。」と、 井上 武男生徒の順番になり、私は、這々の体で、
下に降りる事になったのです。
【 当時の呉鎮守府 庁舎 】
みなさん、登るより降りるのが恐ろしいものでして、足を踏み外して落ちたら人生
終わりなわけです。
「ウッウウウッ 神様、仏様、どうか落ちませんように、落ちても命がありますよ
うに。」と、念仏を唱えまして、私は下に降りる綱ばしごに足をかけたのです。
どういうわけか足の裏がむずむずいたしまして、ゆらゆらする綱ばしごを下に
ひとつずつ、ひとつずつ慎重に降りていったのです。
なんとか無事下におりまして、大地というのはありがたい物でしてこんな良い場所は
ありません、 まだ、マストの上と、海軍大尉殿との間で姓名申告が続いていて、
まだ終わるまでに時間がありそうなので、 右の建物の日陰の壁際に、腰を落とし
たのです。
しばらくすると、井上 武男生徒がやっと降りてきて、 こちらに走ってきたので、
「 おーーーう、井上生徒、やっと終わったか、 やれやれひどいめにおうたでーーい、
呉の鎮守府なんぞに来るもんではない、 ほんまっ、えらいこっちゃでーーっ。」と、
話しかけると、 井上 武男 生徒が、急にきょうつけをして、背筋を伸ばして、ひき
つった顔をして、神妙な顔をして私に敬礼するので、 私は、「 なにしとるんや。」と、
話しかけると、背筋が寒くなり、 後を振り返ると、 後には、呉鎮守府の参謀長、
正木 義太 海軍少将 殿が、 みけんにシワをよせて、仁王様のように立たれて
いたのです。
【 呉鎮守府 参謀長 正木 義太 まさき よしもと 海軍少将後の、海軍中将
侍従武官 】
「 貴様は、本当に寅【トラ】年生まれなのか。」と、ぐっと私を見ながらおたずねに
なるので、 「 はっ、 昨年は、受験したのですが、不合格となり、今年 やっと
合格いたしまして兵学校に入学いたしました。」と返事をすると、 急ににこやかに
表情が緩んで、「 そうか、大変であったな、 わしの倅【せがれ】も、貴様と
同い年でな、 正木 生虎 【まさき いくとら 海軍兵学校51期卒 後の海軍大佐】
と言って、兵学校の今年、 2号生徒じゃ、 なにかあったら、 よろしく頼むぞ、
畝傍中学【 後の 県立うねび高等学校の事】卒業であります。」と、お答えすると、
やさしい、お父さんのような笑顔で、 「 これからも、がんばれよ。」と、言葉をかけて
いただき、私達は、ただただ、背筋を伸ばして、敬礼したままの姿で、鎮守府の
官舎の方に、歩いて行かれるのを見送りしたのでした。
正木 閣下の ご子息の正木 生虎 生徒は、私と同じ年の、1年先輩生徒で
して、 又後日紹介しますが、 主に通信屋の畑を進んで、 戦艦日向 【ひゅうが】
長などを殺害し、 近衛師団をのっとって、 宮城【現在の皇居の事】を占拠して、
近衛師団が暴動を起こしていくのですが、 この時、 正木 生虎海軍大佐が、
宮内庁に持ち込んだ無線機が大活躍するのですが、 又、後日順番に紹介して
行きます。
【次回に続く。】