第777回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】
第776話 海軍兵学校 長澤 直太郎 教頭の転出の事。
2014年4月8日火曜日の投稿です。
月が変わって、 大正10年12月1日 木曜日の事、 記憶によりますと、
晴れのち曇りの天気であったと思います。
当時海軍兵学校では、この12月から、よく年の2月の4ヶ月間は、起床が、
朝の0530時から、0600時に、30分遅くなりまして、 少しだけゆっくり寝れたの
です。
戦後の海上自衛隊では、どうかは存じ上げませんが、 当時、みなさんもそうで
あろうと思いますが、朝を30分余分に寝れると言う事は、私達にとっては、ずい
ぶんと楽でした。
御殿では、 西村 文雄 二等軍医が、火鉢に火を入れまして、高松宮殿下のヒザ
を診察しているところでした。
山内 源作 皇子傳育官が、 「殿下、 教頭の長澤 海軍大佐がおこしでございま
す。」と、伝えると、「 そうか、くるしゅうない、 入るが良い。」と、 入室の許可が
おり、長澤 海軍大佐が、 高松宮殿下に拝謁し、「 今日は、離任の挨拶にまか
りこしました。」と、切り出すと、 高松宮殿下は、びっくりしたような顔で、 「そちは、
どこかに、転勤になったのか。」と、おたずねになられたのです。
長澤 直太郎 海軍大佐殿は、「 殿下、本日12月1日づけで、戦艦 伊勢の
艦長への辞令が発令されまして、 予科時代も入れて、約2年という長い間お世話
のは、寂しい、世を狩りなどに、連れて行ってくれたり、良く尽くしてくれた、ところで、
そちの後任の、監事長 兼 教頭には、次は、誰が転勤してくるのか。」と、お問い
合わせがあり、長澤大佐は、「 はっ、 生徒監事の 丹生 猛彦 海軍中佐
【 海兵30期卒】が、本日付で大佐に進級し、職を代わる予定であります。」と、
お伝えすると、「 そうであったか、世の剣術の先生が、今度は、教頭になるのか、
ところで、そちが艦長になると言う、戦艦 伊勢とはどのような、艦であるか。」と
殿下がおたずねになり、 戦艦 摂津【せっつ】の 約2倍の排水量がある、大きな
戦艦であります。」と、お返事すると、「 なに、 あの大きな、摂津の 倍近く大きい
のか。」と、びっくりされ、「 世も、1度乗艦したいものじゃ。」と、なごやかに、お話
が進んだようでした。
私達が在校していました、大正時代の当時海軍では、 11月中旬から12月まで
が、人事異動の月でして、 同じ配置に同じ人が2年とどまるというのは、少な
かったのです。
高級将校から、下は水兵まで、 12月までに移動し、 新しい部署に移動して、
各術科の訓練を重ね、 9月から1ヶ月程度、秋に演習がありまして、 それが終わ
ると又、人事異動するという繰り返しだったのです。
同じ人物が、 ひとつの仕事を何年も担当すると、 なにがしかの問題が発生し、
例えば、 お金の使い込みがあっても、 わからないわけです。
1年ごとに移動して、別の人間が引き継ぎ、 そのような事を未然に防止する
仕組みだったのです。
又、同じ職場に、へんな、上司がいて、 ソリが合わなくても、 1年辛抱したら
移動出来るという、 そういうこともあって、 どんなことでも、階級の下の人間は、
「 1年の辛抱や。」と、言うのが当時の合い言葉だったのです。
当日は、記憶によりますと、 午前中、教頭であった、長澤 直太郎海軍大佐
殿をお送りする、送別会が、 海軍兵学校の大講堂で行われ。
長澤 直太郎 海軍大佐殿の離任式と、 新任の 丹生 猛彦 海軍大佐殿の
着任式が行われたのでした。
その後、私達は、 小銃を担いで、 練兵場で、隊列を組んで、行進して、
長澤 海軍大佐の観閲を受けた後、 海軍兵学校の正門から、 教頭先生を
お見送りしたのでした。
その2年後、 長澤 直太郎 海軍大佐殿は、戦艦 伊勢の艦長を務めた後、
海軍少将に進級され、 又、海軍兵学校に、おこしになるのですが、又、順を
おって、紹介して行きたいと思います。
当時私は、海軍で出世して行くには、 長澤 直太郎大佐のように、 海軍の
主流の、戦艦の大砲屋にならないと、出世は難しいと考えていたのです。
いずれは、自分も、戦艦の艦長になってやろうと、考えていたのですが、
軍縮で、生徒の整理があるという噂が、心配でならなかったのでした。
【次回に続く。】