第785回 昭和の伝道師【戦中戦後のパイロットの物語】
第784話 海軍兵学校、飲食接待を受けぬ事。 2014年4月16日水曜日の投稿です。
【 大正10年当時の呉鎮守府 参謀長 正木 義太 海軍少将 】
一通り、正木閣下の旅順閉塞作戦のお話がおわりますと、 「 コ゜ホ、ゴホッ。」と
ぜんそく気味な、せきを何回かされまして、 お体の具合が良くないように感じられたのですが、
その後、私は子息の 正木 生虎生徒【海軍兵学校 51期卒 のちの海軍大佐 】 と、お話
をする機会がありまして、聞いたところでは、 お父上の正木閣下は、 日露戦争で負傷されて、
砲弾が頭の上の、煙突付近で炸裂したときに、 左の耳の鼓膜が破れたようで、 左の耳が
難聴で、 左耳の一部が、欠損されていたそうで、 左肩も、砲弾の破片が、食い込んで、
そうです。
その後、海軍兵学校の監事をして、 ヨーロッパに単身赴任され、 イギリスで、 戦艦 金剛の
【 イギリスで建造された、 戦艦 金剛 】
副長【 艦長の次の役職 】に、海軍中佐で、赴任されたのですが、 3番煙突の
後で、何かの作業を立会中、 ワイヤーが切れて、 鉄の大きなフックが、正木閣下
達を直撃し、 十数メートル下の甲板に、たたきつけられて、 足などを複雑骨折し、
イギリスの病院に、入院することになった時に、 左腕が、筋が切れたのか、不自由に
なり、足も、 6センチ程度、 砕けた骨を摘出して、 短くなっていたそうです。
私達の前で、咳き込んでいたのは、 大正7年に戦艦 河内【かわち】の艦長であった
時、 山口県の徳山湾で、 突然火薬庫が爆発し、 戦艦 河内は、640名程度の
死者を出して、 真っ二つになって沈没してしまうのですが、その時に、大量に
油混じりの海水が、肺の中に入ってしまい。 戦後の現在で言う、肺気腫のような、
肺の機能が低下し、ぜんそく持ちのような、 体調であったったようです。
徳山沖の悲惨な事故は、 その後、柱島泊地での、戦艦 陸奥の事故につながって
いくのですが、 火薬というのは、恐ろしい物です。 又、順番に紹介して行きます。
そんな、 正木閣下は、 人から物をもらったり、 食事をご馳走してもらうと言う事が
大嫌いな人であったらしく、 不在中、 お中元のような物を自宅に持ってくる人が
いるわけですが、 15才年下の奥さんであったようですが、奥さんがずいぶん、
困り果てていたそうです。 受け取らざるを得ない場合もあり、 受け取ったなどと
難聴の正木閣下の耳に聞こえると、 閣下は、すごく機嫌が悪くなったようで、 そういう
場合は、又、送り主の所に、丁重に品物を持参して、わびを入れて返却されていた
ようです。
当時、 海軍の高官をしていると、 出入りの業者にしてもらいたいとか、
いろんな、 金銭での買収や、接待などの誘いを、すべて断っていたようです。
相手からすると、悪く言うと、 ゆうずのきかない軍人だったのですが、 裏を返すと
きれいな袖の下を取らない人であったようです。
そういう考えなので、 私達のお話の時も、最後に、 こんなお話をされていたのが
記憶に残っています。
「 財閥から、1度お金をもらうと、 ずっと、その財閥の言う通りにしないといけなくなり、
考えて見ると、奴隷になるのと同じである。 諸君は、そのような事は、絶対しないよう
出来る範囲で、 相手の要望を聞いて処理し、 報酬や、 接待を受けてはならぬ。」
と、 こう言うお話を、大きな声で教えていただいたのですが、 源田も、私も、二人とも
この方針で、 戦時中は通しました。
他にも、いろんなお話をお伺いしたのですが、 又 順番に紹介して行きたいと思います。
【次回に続く。】