第824回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】
第823話 海軍兵学校 扇 一登 生徒の事 2014年5月25日日曜日の投稿です。
私達を乗せた、鉄道は、年末の午後、 コトン、コトンと音をたて、広島停車場から
山陽本線を、一路東の大阪方向に進んだのでありました。
戦艦 日向乗り組みの、 河野 栄男水兵と、河野水軍の敵船切り込みの戦談義に花が咲き
まして、同じ明治35年生まれの事もありまして、 大話していると、鉄道は瀬野川停車場に
が、急峻な上り、下りとなっていて、当時、1輌の機関車では、手があまるので、
2両以上連結して、客車を引っ張っていたのです。
駅に停車していると、 人がぞろぞろ入って来られ、 「 ばーさん、年末じゃけぇ、
座席はいっぱいじゃのう、 どっか、あいとらんかのうや。」と、いいながらご老人
夫婦が私達の座席に、近づいてきたのでした。
すると、セーラー服姿の、河野 栄男水兵が、 さっとたって、 「 自分の席にどうぞ。」
と言うと、御老人のご主人が、「 おーーー、水兵さん、すまんのうや。」と言うと、河野水兵
は、 「自分は波の海上で鍛えておりますので、ご心配なく。」と、こう言うのですが、相手は、
夫婦ずれの2名、 空いた座席は1名分、 ふと、海軍中尉殿と、ぱっちり目が合いまして、
中尉殿に立てというわけに行かず、 やれやれしかたない、どうせ立たないといけない
のなら、いやな顔をせずに、 笑顔で座席を譲ろうと、こう思いまして、立てろうとしたら、
斜め向こうから、 「 おい、 貴様は、 奈良まで道中長いから、そのままで良し。」と、
声がしたのでありました。
一人は、 以前紹介した 黒田 吉郎 生徒、【第52期卒 のちの戦艦大和の砲術長】
もうひとりは、 存じ上げない、2号生徒の先輩生徒でありました。
その生徒、 「 海軍兵学校の扇 一登生徒であります。」と、海軍中尉殿の前で敬礼する
と、黒田生徒と供に、立って座席をご老人夫婦に譲り、こちらに移動してきて、私達の前に
二人とも立ったのでした。
一連の出来事を見ていた、海軍中尉殿は、 「おい、貴様は何期の生徒か。」と、扇 一登
生徒に尋ねまして、 「明治34年生まれの第51期です。」と、返事をすると、海軍中尉殿
が、「2号生徒か、1年学年、遅いが、どこの中学か。」と、問われ、 扇生徒が、「自分は
あります。」
【 安田 義達 海軍大佐 海兵46期卒 広島県府中市出身 のちの海軍中将 】
と、 返事をすると、 海軍中尉殿が、「 おい、河野水兵、 貴様は、ご老人に席を譲るのは
立派な心がけであるが、 これより、 淵田、小池 扇 黒田 両生徒と、交替で、座席を
使用せよ。」と、言われるので、 もっともなことで、そういう話をしていますと、扇生徒が、
「我々2名は、 あと一時間半程度の尾道停車場で下車しますので、お構いなく。」
「ところで中尉殿は、 第何期の卒業であられますか。」と、 問うと、 じろりと、こちらを
見て、「 わしは、海軍兵学校 第46期卒 広島高等師範附属中学卒、海軍中尉
安田 義達である。」 と、大きな声で初めて自己紹介をされ、印象に残る出会いでありました。
扇 一登生徒は、 大変語学に堪能な人で、 連合艦隊の参謀を務めた後、潜水艦に乗って
大東亜戦争中、ドイツに留学しまして、 ドイツ大使館附き武官としてベルリンで、ドイツの
敗戦を身近に見るという、貴重な体験をすると供に、デンマーク経由で、中立国の
連合国と、大日本帝国との講和を進めていこうとするのですが、 又、順序を追って、紹介して
行こうと思います。
安田 義達 海軍中尉殿と私達海軍兵学校生徒を乗せた鉄道は、 急勾配の線路を
一路、陸軍の演習場がある、八本松に向かって、進んでいったのでありました。
【次回に続く。】