第857回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】

第856話 海軍兵学校 軍人としての統帥の心構えの事。 

                                                  2014年6月27日 金曜日の投稿です。
 
 
 
 
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   すこし、戦後のお話をするのですが、 東京での極東軍事裁判が終わり、公職

を追放され、妻の春子の親族の世話で、 奈良県橿原市に少しばかりの土地を

世話していただいて、 ここで自分で1から、自らの手で家を建て、ささいな農業を

始めるのです。
 
 当時は、 深刻な食糧不足で、生活していく上で、将来的に有望と考えてのことで

した。
 
大阪へ出て、物資のバラック市で、農業の古本を買いこみ本を読んで、 海軍で

経験した作戦遂行を経験に、農業の耕作計画を立案し、自分の家の図面を引いて

妻の実家の山から木を切り出し、自ら製材してーーーーーと、すべてとは言いません

が、 全くうまくいかず、 家族に随分と、苦労と心配をかけたのです。
 
数年前まで、 航空総隊総参謀という身分で、部隊が数千人いて、作戦を立て、

指導していたプライドから、 天狗になっていたと思います。 
 
農業とは、私が考えていた以上に、簡単な物ではなかったのです。
 
家なども、 木を良く乾燥させずに使用したためーーー、ご想像にお任せします。
 
当時、 「 もうかる養鶏。」という、本を読んで計画を立てて、実行し、そして失敗

して、 何をやっても、うまくいかず ずいぶんうちひしがれて、沈んでおりました。
 
 
記憶によると、 昭和27年4月でしたか、草鹿 龍之介 元海軍中将が大阪の
 
当時、阿倍野区の北畠と言うところに、お住まいであったのですが、本を作られ、

 一冊送っていただいたのです。
 
当時、 草鹿 閣下は、土壌改良用の肥料を研究開発をされていまして、 ずい

ぶんお世話になりました。
 
 
 
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          【 草鹿 龍之介 著  聯合艦隊  昭和27年 4月 出版 】
 
 
 
草鹿 中将は、当時、2名 いらっしゃいまして、 一人は、ラバウルに籠城して、
 
終戦まで、持久戦をして、武名をあげられた、草鹿 任一 海軍中将、 こちらは、
 
いとこになるのですが、 もうひとりは、 今日紹介する、草鹿 龍之介 海軍中将
 
 
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この方は、 第1航空戦隊 参謀長 第3艦隊参謀長、 聯合艦隊参謀長を歴任し、
 
太平洋戦争と呼ばれる、主要な海戦で、 主導的立場の人でありました。
 
 
 
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          【 草鹿 龍之介   聯合艦隊 参謀長  海軍中将 】
 
 
 
戦後の小説家や、ライターの様な人が、「 源田参謀がたてた、計画を南雲中将は
 
追認するだけで、 日本の機動部隊は、源田艦隊のようであった。」とか、そんな

文書を書かれていますが、大きな間違いで、 小説家の空想話に、 本から、本を

作っていく人達が作り上げた、さらに、空想を交えてエスカレートしていったようです。
 
実際には、 何事も、草鹿 参謀長が決済されていたのが実情で、 真珠湾作戦も、
 
2次攻撃をせずに引き上げを提案したのは草鹿、参謀長で、その提案を南雲中将が
 
聞かれて、もっともと判断されて、転進が決まったというのが真相でした。
 
当時、12月の冬場の北方海域は天候が悪化して波が随分高くなり、発艦は、なん

とか出来るものの、 着艦にずいぶん危険が感じられ、後方には、ミッドウェイ島

米軍基地、ウェーキ島の米軍基地に攻撃をかけた、 井上 成美中将の第四艦隊が、

米軍の航空機の爆撃に遭い、大きな被害を出して撃退されたという、通信を傍受した

直後であったのです。
 
つまり、帰り路、 魚雷、爆弾の弾切れの状態で、恐怖を感じつつ危険の中を通過

するか、少し弾の残った状態で、 後方を警戒しつつ、 残心【武道の用語で、 相手

に打ち込んだ後、体は前を向いていても、心は、後を警戒しながら走り去ること。】を

示しながら、大切な機動部隊を南方に転進せしめ、 イギリス極東艦隊攻撃に向かう

べきだというのか、当日の判断であったのです。 

 その時点では、 シンガポールのイギリス極東艦隊は、 大変な脅威であった
 
のですが、 転進の途中で、 撃破の通信を傍受することになります。  
 
 
 
 
 
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映画トラトラトラの最後に、源田航空参謀役の三橋さんが 、「 長官、攻撃は反復

しなれればなりません ーーーー、云々。」   すると、南雲長官役の東野さんが、

「 それは違うーーー云々。」と、赤城の艦橋で言い争いするシーンが出て来るのは、

映画会社の東宝の演出家の作り話で、 実際に、そのような事は、一切なく、 草鹿

参謀長の転進案に誰も反対しなかったというのが、真実なのです。
 
このことを、ずいぶん、源田は、気にしていまして、 当時、航空自衛隊の大幹部で

あった源田空将が、公務員と言う事で、なかなか面会が出来なかったのを、なるべく

真実に忠実な映画作りがしたいと言う事で、映画会社と、源田空将との間を仲介した

のは私でして、 源田には、申し訳ないことをしました。 

源田は、 上司である、 大石 保 首席参謀や、さらにその上の草鹿 龍之介 

参謀長【 当時の海軍少将】を飛ばして、 海軍中佐【当時】が南雲忠一海軍中将

にかみつくような発言をすることはなかったというのが、本当の真実でした。
 
映画を見た、海軍関係者、その他の人から、 色々批判が噴出し、源田には、当時

随分と迷惑がかかったのです。  

 又、詳しく後日紹介するつもりです。
 
 
 
 
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そして、 終戦間際まで、聯合艦隊の決定は、ほとんど、草鹿参謀長が決済し、

 豊田 副武 聯合艦隊司令長官が、 報告を受けて、追認していたというのが、

本当のところでした。
 
 
 
 
 
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   話は、元に戻って、「 ほうーーー、本を作られたのか。」と、読んで見ますと、 


私と、源田の事を、「 源田と淵田のこの2名はーーーー云々。」と随分ほめて書いて

ありまして、やけ酒を飲んで 当時へこんでいたのが、少し気分が良くなったのです。
 
 
 
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   源田【 源田 實 航空幕僚長 参議院議員】の部下の統帥方法というのは、

彼は基本的に部下に1つの命令しか与えなかったのです。
 
あれもしろ、もれもしろと、命令はださずに、 「これだけ、確実にやってこい。」 と、

こう言う感じで、 その部下が、その命令を遂行できない場合、 ずいぶんいらついて、

「 貴様、俺が出来る事が、貴様にどうして出来ないのか、  戦闘機の乗り方を

教えてやる。」と機関銃の連射のように話すところがありました。
 
つまり、 頭の回転が人より速く、能力のある人だからこそ、そのような事が話せる

わけです。
 
反面、私は、そんな源田のような能力は残念な事に、持ち合わせていなかったので、
 
どうしたら、 この人に協力してもらえるか、目標が達成できるか、相手の話を聞いて、
 
かみ砕いて、 お話ししていく、 自然とそういうやり方になっていったのです。
 
人のお話をよく聞く、なかなか難しい事でして、 その基本が出来たのは、 海軍

兵学校に入学してからでありました。 
 
 
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ちょうど、井上 武男生徒と洗濯場でお話をしていた頃が始まりであったと思います。   
 
「 井上生徒、 最近の 新しい分隊の中の様子ちゅーーんは、どうやねん。」と、水

を向けて彼のお話を、 「 ほぉーーーっ ふむ、ふむ。」 と、 洗濯をしながら、聞い

ていったのです。
 
 
 
【次回に続く。】