第1136回 昭和18年 伏見宮博英王の古写真を考察する。 模型公園。

みなさん、こんばんは、模型公園です。 


                     2014年11月20日木曜日3回目の投稿です。
 
 
 
 
 
              模型公園が所有する古写真をみんなで楽しむコーナーです。
 
 
 
 
 
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        この写真は、 皇族の 伏見宮 博英親王殿下のご一家の写真です。
 
        1番右が、 ひろひで 親王で、 ヒザに抱いているのが、次女の和子さん、
 
        後の、京都の得浄明院 の住職をされた、誓寛 さんと思います。
 
        中央が、 長女の元子 さん。  左の幼児が、 三女の順子さん。
 
        左のご婦人が、 時期的に、確証が無いのですが、 後妻に入られた

        黒田 定子 さんと思います。
 
       博英 親王殿下は、 当初、 旧大名家の 柳沢 保永さんの三女の豊子さんと、
 
       結婚されていたのですが、お亡くなりになり、 旧大名家の黒田家から、定子さんが
 
       後妻に入られたようです。
 
 
 
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       殿下のお父さんは、 海軍軍令部長を務められた、 伏見宮 博恭王【ひろやすおう】
 
       で、黄海海戦に出陣し、 負傷するなど、皇族中では、歴戦の勇士で、艦隊派
 
       重鎮でした。
 
 
               お母さんは,徳川将軍家 最後の15代将軍 徳川慶喜公の 9女 

       徳川経子様でした。
 
 
 
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           お兄さんの、長男の 博義王 【ひろやすおう】 は、海軍大佐ですが、
 
           持病の治療で、薬を注射したところ、 心臓麻痺でお亡くなりになり、
 
 
           次男の 博忠王 【ひろただおう】 は、軽巡 五十鈴【いすず】に乗り

           組んでいる時に病気にかかり、佐世保海軍病院で、海軍中尉で

           お亡くなりになり。
 
 
           三男の 博信王【 ひろのぶおう】は、海軍大佐として 戦後までご存命

           でした。
 
 
 
 
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           海軍の軍人一家であったのですが、 南方のセレベス島上空で

          移動中、 敵の機銃弾があたり、 重傷を負い、 その後、 回復

          に至らず死亡されたのです。
 
           この写真は、昭和18年の9月8日に、 日本全国に大量に配布され、
 
           皇室の一員が、前線で戦死され、 戦争の戦闘に皇室が先頭に

           立って、戦って戦死したという宣伝のために、 ばらまかれた、当時

           の写真の1枚です。
 
           当時、 どういう経緯で、 海軍の皇族が、南方の前線に、航空機

           で移動していたかと言う事は、これから勉強して見ようと思っています。
 
 
            今日は、海軍兵学校 第62期卒 伏見宮 博英 親王殿下のご一家

            の写真の紹介でした。
 
 
 
      【次回に続く。】