第1136回 昭和18年 伏見宮博英王の古写真を考察する。 模型公園。
みなさん、こんばんは、模型公園です。
2014年11月20日木曜日3回目の投稿です。
模型公園が所有する古写真をみんなで楽しむコーナーです。
![イメージ 1](https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/A/A20190825D/20010111/20010111074810.jpg)
1番右が、 ひろひで 親王で、 ヒザに抱いているのが、次女の和子さん、
後の、京都の得浄明院 の住職をされた、誓寛 さんと思います。
中央が、 長女の元子 さん。 左の幼児が、 三女の順子さん。
左のご婦人が、 時期的に、確証が無いのですが、 後妻に入られた
黒田 定子 さんと思います。
博英 親王殿下は、 当初、 旧大名家の 柳沢 保永さんの三女の豊子さんと、
結婚されていたのですが、お亡くなりになり、 旧大名家の黒田家から、定子さんが
後妻に入られたようです。
![イメージ 2](https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/A/A20190825D/20010111/20010111074820.jpg)
重鎮でした。
徳川経子様でした。
![イメージ 3](https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/A/A20190825D/20010111/20010111074830.jpg)
お兄さんの、長男の 博義王 【ひろやすおう】 は、海軍大佐ですが、
持病の治療で、薬を注射したところ、 心臓麻痺でお亡くなりになり、
お亡くなりになり。
三男の 博信王【 ひろのぶおう】は、海軍大佐として 戦後までご存命
でした。
![イメージ 4](https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/A/A20190825D/20010111/20010111074840.jpg)
海軍の軍人一家であったのですが、 南方のセレベス島上空で
移動中、 敵の機銃弾があたり、 重傷を負い、 その後、 回復
に至らず死亡されたのです。
この写真は、昭和18年の9月8日に、 日本全国に大量に配布され、
皇室の一員が、前線で戦死され、 戦争の戦闘に皇室が先頭に
立って、戦って戦死したという宣伝のために、 ばらまかれた、当時
の写真の1枚です。
当時、 どういう経緯で、 海軍の皇族が、南方の前線に、航空機
で移動していたかと言う事は、これから勉強して見ようと思っています。
の写真の紹介でした。
【次回に続く。】