第1004回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】
第1003話 源田家のお盆休みの事。 2014年11月21日 金曜日の投稿です。
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みなさん、お盆というのは、 墓地から、ご先祖様の霊が、我が家の仏壇に帰って来て
云々ーーーーと、 そんなお話を聞いたのですが、 当時の源田家と、墓地は、 東側の山
と言うか、林の西側にあって、 現在の加計の町の川土手より、ずいぶん東側に位置して
いたのです。
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どうしてかと言いますと、戦後、温井ダムという、ダムが出来て、 水害の心配は、ほぼ
無くなったのですが、 自分が子供の頃の大正時代は、そのような治水施設はないので、
土石流のような、 水害が発生したり、 田畑が浸水して、農作物がダメになったりと、
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そういうことが、昔から続き、 そういう場合に、農業だけでは、どうしても
生活が成り立たないと言う事で、 副業を始める農家が増えていったのです。
戦後で言う、兼業農家と言いますが、 当時他の事業に手を出して、 借金だけが
残ったり、 当時の加計の人々は あの手この手で、 いろんな事を試し、挫折し、
苦労が多かったわけです。
父の春七が作った、お酒を、定期的に、一定の価格で、買い上げてくれる
広島の原のおじさんは、 販売ルートを持たない、中国地方の山村の源田家
にとっては、有り難い存在であり、 台所事情が、良くなっていったのです。
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と言うのが、源田家の家族構成は、 6男2女の大人数で、戦後の現在からすると
8人も子供がいると、 びっくりされるかと思いますが、当時は、それが当たり前で
あったのです。
と言うのが、当時は医療水準が低く、 子供が小さい頃に、亡くなることが多く、
また、 子供が農作業や、家の家業の貴重な労働力でもあったのです。
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そんな大家族の中の長男が、 東京帝国大学 在学中の、松三兄さんで、
次男が、 自分で、 三男が、 幸夫でした。
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お父さんが、「 松三、 幸夫は、 柔道ばっかりしてのう、 ひとつも勉強を
せんのんじゃ、 こまったもんじゃのう、 柔道では、飯をくうていかれん言う事を
おみゃーから、よういうてくれんか。」 と、 牛車の荷台で座り込んでいる
兄に語りかけるので、 「 ほうじゃのうーーー、柔道して、金にはならんし、
給料もらえるのは、 警視庁の柔道師範にでも選ばれれば、 もらえるかもし
れんがのう。」 と、こんな会話をしながら、 やっと我が家に帰り着いたのです。
日はとっぷり暮れて、夜になっていたのです。
【次回に続く。】