第1034回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】
第1033話 毎朝の祈りのこと。 2014年12月21日 日曜日の投稿です。
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【 戦前の 広島市鉄道停車場 広島駅 古写真 】
自分は、大正11年8月15日の早朝、下宿先を丁重に挨拶して、広島駅に向かい
呉線に乗って、一路呉駅を目指したのです。
鉄道の客車に揺られていますと、 同期の仲間や、 先輩、後輩の顔が浮かんで
くるのです。
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順番に紹介して行きますが、飛行機で空を飛んだのは、自分は、昭和に元号が
変わり昭和4年12月の初旬に、霞ヶ浦の航空部隊に転勤し、 翌年の昭和5年
に入ってからでありました。
つまり、26歳になってからで、随分遅かったのです。
年上の同期の淵田 美津雄氏の方が、空を飛んだのが、自分より早く、彼は、
大正12年に空を飛びましたので、 空の面では、先輩で、 そのチャンスを逸した
当時負けず嫌いの塊であった自分は、 随分悔しい思いをしたのです。
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ところで、自ら操縦幹を握り、 思い至ったというのは、 人に見せようとか、 格好を
つけようとか、 無茶なことをすると 必ず事故に至り、 墜落したり、 大切な御国の飛行機を
壊したりと、こう言う事になっていき、自分自身も、順番に紹介して行きますが、空母の飛行
甲板に着艦を失敗して、 甲板員が負傷する事故に至ったこともあります。
昭和5年から、 支那事変が始まる数年間というのは、 周囲で亡くなったのは、ほとんど、
航空機の事故による物でした。
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そして、その航空機の事故で共通しているのが、 遺体が顔面がないことでした。
つい、1時間前まで親しく話をしていた同じ部隊のパイロットが、駆けつけてみると、
顔がなくなっている。
なぜかというと、 操縦席から、前に押し出される形となり、 発動機の上を、
頭からプロペラに突っ込む形となっていき、 多くのパイロットが、顔面をプロペラで
打たれて、 顔がなくなるというか、 頭が半分なくなるわけです。
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周囲の人が亡くなっていくと、 また、 そういうことが続いていくと、心に冷たい風が
吹き、 何かにすがりたくなるような気持ちになっていき、 その事故で亡くなった
同僚の遺品を整理して、 ご遺族に届けたり、 葬儀に参列したりしていると、いつの
頃からか自分は、 帳面に、亡くなった人の姓名をかき込んで、 朝 手を合わせる
習慣が出来ていったのです。
飛行機というのは、 当時、構造上の問題もあり、事故が大変多かったのが現実
でありました。
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昭和16年、大東亜戦争が始まると、 その帳面の名簿は増え続け、 昭和17年の
ミッドウェイ作戦の最中、 自分の部屋に置いていたのですが、 真珠湾作戦の計画書
とともに、赤城と一緒に焼失してしまい、 当時 当番兵が、火の粉を浴びながら、
自分の通帳と印艦を自分の部屋から命がけで、とってきて渡してくれたのですが、また、
その後時間をかけて書き直し、 現在に続いています。
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毎朝、 その帳面を前に、手を合わすのですが、 亡くなった面々の顔が浮かび
当時の事が思い出されます。
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大戦中から、「 貴様のたてた作戦で多くの者が戦死し。」と、 言われ続け、
自分の心に突き刺さり、 「 戦闘では戦死が出るのはやむを得ず、 その数を
極力少なくするよう努めるべきである。」 という、考えの基、気を張っていたのですが、
毎日、毎日、その帳面の戦死の記帳の数は増えていったのです。
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戦後になりますと、 そう名簿が戦時中のように、増える事はなくなったのですが、
事故は続いていき、名簿は増えていったのです。
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最近では、自分が選定に大きく関与した 航空自衛隊の戦闘機が事故が多発し、
ジェットエンジンが1基の場合、 2基の機体と比較すると、 トラブルが発生すると
墜落の可能性が非常に高いと指摘を受け、 当時は、 それが最良の選択と考え、
周囲に説明をし、 我国に採用されたのですが、 航空自衛隊を 退官した後も、
気にかかって仕方がないのです。
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自分が選定に大きく関与した機体が、 墜落し、犠牲者が出ると、 その人達の
名前も記帳し、 毎日手を合わせているのです。
手を合わせていると、 「もう少しあの当時何とかならなかったのか。」 と、
思い悩み、 自分は、その悩みは一生背負っていくことになったのです。
【次回に続く。】