第1062回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】
第1061話 鳳翔に着艦出来るパイロットがいなかったの事。
2015年1月18日日曜日の投稿です。
以前紹介したように、 大正10年の 自分が海軍兵学校を受験していた頃、 茨城
養成が行われていて、 日本海軍の航空部隊の土台となっていったのですが、
【 大正11年 3月 猿島沖 戦艦 山城 古写真 】
自分がまだ海軍兵学校の3号生徒の頃、 そのイギリス人の指導で、 神奈川県の
横須賀沖にある、猿島 という島があるのですが,そこの沖合で、 戦艦 山城の
2番砲塔から、 イギリスの教育団が分解して日本に輸送してきた、 スパロー
ホーク戦闘機を飛ばす実験をしたお話は、以前紹介したと思います。
記憶では、 1922年 大正11年 3月29日の午後の事でしたが、
この当時の飛行機というのは、 金属骨格に、布張りで、機体がずいぶん軽く
できていてバラバラに分解して、 戦艦山城の2番砲塔の上に、人力で持ち上げて、
組み立てて発艦するという、 スタントショーのような実験でした。
当日は、 3機の機体で、 3回実験データーがとられ、 3回とも成功し、 飛行機は
横須賀の航空隊の 飛行場に無事に着陸したのです。
語ると、 「 司令、そんなことは無理です。」 と言うわけです。
自分が 航空幕僚長の時に導入が決定された、 F104は、速度は速かったのですが
旋回半径が2キロ程度と、 小回りのきかない機体でしたが、 浜松時代の F86は
乗ってみると、 ピタ、 ピタ、 と操縦幹と方向舵を操作すると、 敏捷に反応する
よい機体でしたが、 大正時代の複葉機は、 もっと運動性能がよく、非常に軽かった
のです。
広島の郷里の言葉で言うと、 「 ぶちすげぇー、 よーーうごく 。」機体でありました。
この 小山 武 海軍大佐指揮の 戦艦山城による実験で、当時航空機は、
僅か9メートルの滑走台から、 速力25ノットで、 風上に向けて航行し、
風をとらえると、揚力が発生し、発艦が可能と言う事が実証されたのです。
そこで、大正13年の初旬に、 就役した 特務艦 鳳翔 【ほうしょう】から、
発艦と 着艦の 訓練というか、 実験が、 当時の艦長であった、豊島 二郎
海軍大佐を中心として、計画されたのですが、だれもがイギリス人も含めて、
着艦には、 「 机上の空論だ。」と言って、志願者がいない状態であったのです。
イギリスの飛行教導団の面々も、 発艦は、可能なれど、 着艦は現実には
難しいと、こういう考えであったようです。
そして、さらに難しくしていたのが、 特務艦 鳳翔に搭載する予定で、準備を
非常に大きかったのです。