第1163回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】
第1162話 関東大震災 及川 古志郎 海軍中佐の活躍。 2015年4月30日木曜日の投稿です。
空母 赤城【あかぎ】の作戦室での 草鹿 参謀長 【昭和16年当時 海軍少将】
のお話は、いろんな人の報國の精神【 全体を考え国のために尽くす事 】のおかげで
当日の食糧確保はなんとかなったのですが、 翌日、 つまり、関東大震災3日後の
9月3日からの物資が全く無い状態であったのだそうです。
第1航空戦隊の参謀は、 続きの話に聞き入ったのです。
横須賀市周辺の被災者の約8万人分の食事の野外での炊き出しだけでも大変な
仕事でありましたし、現在のようにガスもないので、 火の燃料の薪などの調達も
非常に重要であったのです。
それから、包帯や、 消毒薬などの医薬品が欠乏状態で、 「なんとかしないと、なんとか
しないと。」と、思案しているとあっという間に時間が過ぎていき、 時の流れが速く
感じられたそうです。
より依頼されたのですが、 呉や、佐世保では 積み込みの最中であったのです。
当時、ガソリン車なる物はほんのわずかの高級品で、 多くが馬車や、牛車に
よって運搬され、 積み込みも 人力に頼っていたのです。
現在のように段ボールなどはない時代、 木と縄で荷作りして、 どんと゜ん
救援物資の荷を作って、 水兵や、港湾労働者がどんどん肩に担いで
積み込みを行ったのです。
呉市内や周辺に懇願して、食糧、医薬品を集めたものの、数量が調達出来ず、
真夜中に、広島の陸軍の第5師団の司令部に頼み込んで、 軍艦を宇品港に
接岸させて、 陸軍の援助物資も手作業で積み込み、 出港したのは、9月3日
の月曜日であったそうなので、草鹿参謀が頭を抱えていた9月2日の日には
どこの鎮守府の艦艇も横須賀に向かってはいなかったようです。
9月3日に呉や、宇品を出港して、横須賀に到着するのは、7日の金曜日に
なってしまうわけです。
つまり、計算上では、 5日程度の食糧、医薬品の物資が不足していた
計算になります。
これらの不足する、食糧、医薬品を調達して、毎日24時間不眠不休で
横須賀に物資を搬入してくれたのが、 及川 古志郎 海軍中佐の配下の
水雷戦隊でありました。
関東巨大地震の翌日の早朝、 災害の現状把握の偵察を兼ねて 出港していたのですが
被害が少ない地域などに進出して、 その場所の自治体の役人に頼み込んで
横須賀に24時間体制で、 海路輸送してくれたのです。
災害地域外から、 勝手に出向いて個別に交渉して、それぞれの艦が、
どんどん、夜中も働いてくれたおかげで、 翌日の月曜日分の物資が 日曜日の
夕方、横須賀に届いたのだそうです。
この活躍は、 随分有り難い活躍であったそうで、 多くの被災者の為に
なったそうです。
【 作者より。 】
巨大な地震が発生すると、線路がゆがんで、鉄道が麻痺し、 道路などの
陸上輸送網も、倒壊した瓦礫や、崖崩れなどで当時は陸上よりの輸送手段が
麻痺したようです。
これらの対処方法として、 海上よりの輸送手段というのは、実に有効な手段で
現在の世にあっても 参考にすべき部分です。 海上の艦艇を補給物資の輸送
役割も期待できますし、 被災者の救援活動には実に有益なのです。
今後、 我国でも 知恵を絞って 海上よりの災害救助活動 及び、 輸送活動を
研究する必要があると考えています。
【 明日に続く。】