第1185回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】
第1184話 関東大震災 熱海、小田原、鎌倉の惨状の事。 2015年5月31日日曜日の投稿です。
1923年9月6日 早朝、 伊豆半島沖、大島付近に到達した第2艦隊 司令長官 加藤 寛治
鎌倉方面に転進するよう命令を発令したのです。
随時就役している最新鋭の巡洋艦でありました。
これらの艦艇は、旗艦 金剛から 発光信号を受信すると、北に変針して、
相模湾を北上し、 指定の支援箇所に急いだのです。
森田 登 海軍大佐は、 熱海沖に到着し、 森田部隊は支援物資の陸揚げ作業
を開始したのです。
熱海では、海岸に 山肌が迫っている地形ですが、 強烈な地震で斜面が崩壊し、
多くの人が犠牲になり、 その後、 海から電信柱より高い 大津波が数度打ち寄せ
打ち寄せては、 引いて、 打ち寄せては、引いて行き、 多くの被害が出たのです。
の部隊は、 神奈川県 小田原市沖合に到着し、 すぐさま支援物資の陸揚げ作業を
開始したのです。
当時、小田原の町は、 強烈な縦揺れと横揺れが襲い、 多くの建物が倒壊、
数分後、海岸から 電信柱より高い 大津波が襲い、 寄せては、引き、打ち寄せては
引いて、 大きな被害を出した後、 ちょうどお昼時のため、1度に数十カ所から
炊事の火が倒壊家屋に引火して、 大火災となり、藤井部隊が到着した当時は、
小田原市の全体の9割が廃虚となり、 死者、行方不明者は、集計が出来ない
程度被害甚大であったのです。
が 鎌倉沖に到着し、支援物資の揚陸作業を開始したのです。
矢野部隊が 到着した当時の鎌倉は、 強烈な地震の揺れの後、 数分程度で
津波で多くの人が波に呑まれて 、 建物は倒壊し、 多くの被害が出ていたのです。
当時の言い伝えでは、 海岸で約300人が一瞬で消えて、戻ってこなかったそうで
甚大な被害が発生していたのです。
作業が難航したのが、 港湾施設が破壊され、揚陸場所が海岸に手おろしとなり
戦後の現在のように、段ボール箱などの便利な物はなく、 重量がある杉板の
荷物箱を、波で揺れるボートに積み込んで、少しずつ陸揚げしていったのです。
これらの足場の悪い ボートに乗せるのは 大変な作業で、また海岸に
移動して、 荷物を降ろすのも一苦労であったのです。
活動が開始されたのでした。
【 明日に続く。】