第1206回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】
第1205話 関東大震災 ウッズ 米国大使の事。2015年6月21日日曜日の投稿です。
1923年 大正12年9月18日水曜日、 当時東京府は、南部は
焼け野原となり、当時 数万人の多くの焼死体が散乱していたのです。
悩ましたのが、 これらの遺体の処理であったのです。
誰の遺体かわからぬものもあり、 そのまま放置すると、悪臭が漂い
腐敗して、伝染病の原因となるのですが、埋葬するにも、 どこに10万人
近い遺体を 運び込むのかと言う事が問題となり、また、焼け出された
人達を今後どうするのか、 寝泊まりする場所も不足し、放置すると、また
生活に困窮した人達が、 強盗などを働く原因にもなるため、 評定を続けて
いたようです。
訪ねて来る人が多く、 来客の対応に、ほとほと困っていたようです。
つまり、 自分の事しか考えていない、勝手な人の 御願いと称する陳情が
当時多かったのです。
であった、 サイラス E ウッズ 米国大使が、 至急面会を希望して、
ウッズ 米国大使は、「 ヤマモト カッカ、 オイソガシイトコロ モウシワ
ケナイデース。」 と挨拶し、 山本総理も堅く両手で握手をしたのです。
シンショヲ ジサンイタシマシタ。 ゲンザイ、アメリカデハ、ダイニッポン
テイコクノ タイヘンナ サイガイヲ シエンスルタメ、ゼンベイ カクチデ
シエンボキンヲ オコナツテイマース。
シエンヲ ヨロコンデ オウケシマース、 ナンデモ エンリョナク、モウシ
コンデイタダケタラト オモッテイマース。」 と 、関東大地震の災害援助を
申し入れたようです。
横浜から 清水港への 被災者の海上輸送業務や、 横浜での
医療活動の協力に 大変感謝いたします。」 と、 謝意を表明したの
でした。
しばらくして、 ウッズ 米国大使は、「 ジツハ、ミスターヤマモト、コノ
ショウネンノ シャシンヲ ゴランイタダキタイノデース。」と、1枚の写真を
取りだして、山本 権兵衛 内閣総理大臣に手渡したのです。
【 東京憲兵隊に連行された 橘 宗一 少年 】
写真を手に取った、山本 権兵衛 総理は、「 かわいか、よか、
おのこでごあんす。」 とニコニコしながら、ウッズ 米国大使に語り
かけたのです。
ウッズ 米国大使は、 「 ヤマモト カッカ ジツハ、コノコハ、 ソウイチ
ノ ロクサイノ オトコノコデース。 オトトイ、リクグンノケンペイタイニ
オジ フウフト イッショニ ユウカイサレテ ゲンザイ ユクエフメイ
ホゴスルカンテンカラ、 ソウイチ タチバナ ヲ ソウキニ ダイニッポン
テイコクノ リクグンケンペイタイカラ スクイダシテ ホシイノデース。」
と、語りかけると、 写真を見ながら 山本 権兵衛内閣総理大臣の顔色が
変わり、みけんにシワを寄せながら、 「 またっく、 事情を知らない
ので、 もう少し詳しく状況をお話しいただきたい。」 と、 ウッズ米国大使
となったのです。
ちょうど、山本 権兵衛 内閣総理大臣と、ウッズ 米国大使の会談が
行われていた頃、 東京府立第1中学の校庭の 警視庁の対策本部で
湯浅 警視総監を交えて、 幹部クラスの話し合いがもたれていたの
でした。
出席者からは、湯浅警視総監に、「 このまま事態を放置すると、
のちのち、ここに集まっている警視庁幹部が責任を問われるのでは
ないか、 陸軍の憲兵隊の行動に警視庁として、形を示す必要が
ある。」と、 そういう意見が続出したのです。
多くの人が知ることとなり、 大きな社会事件となっていくのでした。
【 明日に続く。 】