第1241回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】
混乱したのですが、その後、 上原元帥 たち 陸軍参謀本部に根を張る
計画していたのです。
【 当時 陸軍参謀総長であった 河合 操 陸軍大将 】
それは、1923年 大正12年9月22日のちょうど、 福田 雅太郎 陸軍
戒厳司令官が、更迭された頃、 しばらくして 上原元帥の意向で、当時の
陸軍参謀総長の河合 操 陸軍大将が、 ひとりの陸軍少佐を引き連れて
陸軍省の 田中 義一 陸軍大将を訪ねたのです。
【 当時 陸軍の実力者 上原 元帥の副官であった 今村 均 陸軍少佐 】
一緒に後について歩いていたのは、 当時、世間で難しい人と
知られていた、上原 勇作 元帥の副官であった、 今村 均 陸軍少佐
であったのです。
当時、田中 陸軍大臣は つぎつぎ 吹いて沸いて出る難題に
振り回されている状況でありました。
河合 陸軍大将は、 田中陸軍大臣と、 白川陸軍次官に対して
つぎの様に 申し入れを行ったのです。
【 陸軍の薩摩閥 後の 皇道派の実力者 上原 勇作元帥 】
「 本日は、上原元帥の名代でまいりました。 大臣、 我々参謀本部
陸軍少将と、東京憲兵隊隊長 の 小山 介蔵 大佐を 元に戻して
いただきたい。」 と、 申し入れたのです。
それを聞いた、 田中 陸軍大臣は、 「 そんなことは出来るわけがない、
あの2人を今元に戻して、その先どうなるか、 この 巨大地震で被災者
の救援が叫ばれ、国軍が一帯となって、焼け出された国民を救済して
いる最中、 ましてや、摂政殿下が帝都東京から横浜までの間を
帝国臣民を心配され、被災視察行幸を行っている最中、 3人の
殺害を実行し、 ましてやその1人が、アメリカ国籍の6才のいたいけ
のない関係のない子供まで殺害に及んだとあっては責任は重大である。
から口頭で゛発令されたことは既に判明しておって、我輩も国軍の星の
看板に傷がつかぬように処理に苦慮しておる最中、 陸軍参謀本部が、
今日の様な申し入れをされると言うことは、 もし おおやけになれば、
この愚かな事件の絵を描いたのは、 陸軍参謀総長 貴方ではないか
と、 疑いをもたれますぞ。」 と、 声を小さくして、 ずいっと
身を乗り出して 語りかけたのです。
「すでに、この事件は 牧野 宮内大臣より、 摂政殿下に報告され
何も罪の無い子供を手にかけたと ひどく心を痛められ、 内閣の
になる事を懸念する閣僚が相次いでおる。 いったい元帥はどう
されるおつもりか。」と、 逆に 河合 参謀総長に詰め寄ったのです。
【 明日に続く。】