第1273回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】

第1272話  ムッソリーニ少年の素顔の事。  2015年8月26日 水曜日の投稿です。




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       ナチス ドイツの ヒットラー総統が、 模範としていた イタリアの

     ムッソリーニ という指導者は、 その目標が、 ローマ帝国を再現し、

     イタリアを ヨーロッパの強国にすることであったのです。



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        この、 右手を上に上げて、敬礼する方法も、 ムッソリーニ

       始めた物で、 そして、 制服を黒色にするのも、ムッソリーニ

       始めたことで、 ヒットラーの演説を見て、 ムッソリーニの演説を

       比較すると、 非常によく似ています。

       つまり、 ヒットラーは、 ムッソリーニに魅力を感じ、 模倣して

       行ったのです。 

       そして、 ヒットラーも、 ドイツ第三帝国と称し、 ローマ帝国の再現を

       夢見ていたのです。



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         【 ムッソリーニの父親  鍛冶屋の アレッサンドロ ムッソリーニ



     イタリーの独裁者 ベニート ムッソリーニの 父親は、プッレッダビッオッ

     と言う町の 鍛冶屋を営んでいて、 母親は、 ローザ と言う名前で、

     小学校の 教員でありました。

     記録によると、 1883年 明治16年7月29日の生まれで、



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                  【  ムッソリーニの母親  ローザ 】


        ムッソリーニ少年は、 この鍛冶屋の家庭の長男で、 弟と、妹がいて

        普段は 一人で 静かに本を見て 過ごす おとなしい感じの少年で

        したが、 友達と遊ぶような時間が少なかったようです。



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          と言うのが、 小さい頃から、父親の鍛冶屋の仕事を手伝わされて

          いたようで、 自然と力仕事をするようになっていった様です。

          両親の顔と、 ムッソリーニ少年の顔を比較すると、 母親の

          顔立ちとよく似ています。



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     当時から、 勉強がよくできたそうで、 寄宿舎の師範学校に行くことに

     なったのですが、 ここで、 身分の高い生徒達と 暴力事件を起こし、

     退学になってしまうのです。

     当時の イタリーの学校というのは、 現在と違い、 身分と言うのがあって、

      両親が大金持ちで、 学校に金をたくさん払っている 生徒や、 貴族

     出身の生徒は別格で、 食事も、寝る場所も、すべてが 平民の生徒と

     格差がつけられていたのです。

     これらの生徒が、 調子に乗って、 数人で、鍛冶屋の息子、ムッソリーニ

     ちょっかいを出し、 ふだんおとなしい ムッソリーニ少年に火をつけ、

     暴力によって、 撃退され、 ムッソリーニ少年が退学となったようです。



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      現在の世の中からすると、 ムッソリーニ少年が可哀想ですが、 当時の

      イタリーの身分制の世にあって、 たくさんお金を学校に納める親の

      子供の方が、 学校としたら大切であったようです。

      この事件は、 ムッソリーニ少年の心を大きく傷つけ、 すべての国民は

      平等であるべきで、 すべての子供の出発点は、 すべての子供が

      平等で、 すべての子供は、 平等に教育を受ける権利があると考える

      様になっていったのです。

      寝る場所から、 食事の内容まで、身分によって差をつける当時の

      師範学校のやり方はおかしいと、 考えたことをそのまま訴えたのですが、

      だれも相手にせず、 学校を追い出されてしまったのです。


      ムッソリーニ少年は、 母親のツテで、 別の学校に通うこととなり、

      1901年に その学校を 首席で卒業して、 母親の後を追って、

      教員免状を 取って、学校の先生になって行くのです。



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          そして、 当時 イタリーという国は、 貧乏国で、不景気で、

        なかなか教員の職があいてなく、 やっと 教師になれたのですが、

        イタリアの田舎の 小さな学校であったそうです。

        ここで、彼は 母親の影響で、 教員の第一歩を踏み出すと同時に、

        イタリー社会党 という、 日本で言う、日本社会党のような、 教師が

        多く党員になっている様な、政党の 党員になって活動を始めるのです。

        彼は、 当時 少ない月給から、 オペラをしきりに鑑賞するようになり、

        道楽で、 通っていたわけではなく、 オペラの 声の出し方とか、

        身振り手振りを駆逐して、 観衆に対して訴える、 その動作を研究して

        自分の授業で、 それを練習していったのです。



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       このような、経緯で、 両手を同時に動かして、ゼスチャーを交えて、

       上手に 間を取って、 有権者に 語りかけていく 独特の演説方法を

       あみ出していったのです。

        この 映像を ドイツの ミューへンの映画館で見ることとなった、

        ヒットラーは、  彼のまねをして、 演説の練習をしていくことに

        なるのです。


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        ドイツ 第三帝国の ヒットラー総統の 独特の演説の原点は、

        ムッソリーニ 先生の 授業中行っていた、 オペラの観劇の

        語りかけを参考にした、 独特の演説から 模倣された物で

        あったのです。 



         【 明日に続く。】