第1274回 昭和の伝道師【 戦中、戦後のパイロットの物語】

第1273話 ムッソリーニ共産主義との出会いの事。

                             2015年8月27日木曜日の投稿です。




         
   1901年 明治35年に、 ベニート ムッソリーニは、18才で 小学校の

  先生となり、前文で紹介したように、 当時多くの教職員が加盟していた

  イタリー社会党に入党し、 活動を始めていくのですが、 周囲から孤立して

  行ったようです。


   
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        と言うのが、 多くの研究家によって、いろんな諸説があるのですが、

       20才にもなっていない、若い 入党して間もない、若いムッソリーニ

       演説して、 目立つわけです。

       年上の、 年長者から見ると、 「 生意気な 若い教師。」 と、そういう

       嫌悪感をいだいたようです。

        そのような、ごだごだがあって、ムッソリーニは、となりの国のスイス

       に 移住してしまうのです。

        当時、王国であった、イタリーの身分制や、 根を張る マフィアなど

       母国に愛想を尽かしたという説や、 20才からの徴兵制を回避する

       為に、 スイスに 逃げ込んだのだという説もあります。


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       いろんな説があるのですが、 普通考えて、 自分の国を捨てて、

       よその国に行くというのは、 なにか、 困った事をしでかして、

       生命の危険を感じ、 スイスに逃れたのではないかと、思われます。

       そう考えるのが、 妥当と思います。

       それから、当時イタリーは、 貧乏国家で、 多くの人が、アメリカなどに

       難民のような形で移民していたのが実情でした。



       
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         スイスという国は、雪国で、農地が少なく、 仕事も少なく、貧しい

         国で、 まだ、20才前後のムッソリーニは、 職に就くことが出来ず、

         家もなく、 部屋もなく、 貧しい貧乏生活をすることになるのですが、

         当時、頼ったのが、 イタリー社会党の党員で、 当時亡命中の

         レーニンの秘書をしていた、 アンジェリカ、 バラバーノフが、色々

         困っていた ムッソリーニを援助したようです。





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        当時 レーニンは、 亡命中のスイスで、 共産党組織を作ろうとして

        いたようで、 イタリー人のバラバーノフは、 女性でしたが、レーニン

        の語る、 共産主義に心酔していたようです。

        このような形で、 ムッソリーニは、 戦後の現在で言う、アルバイトの

        日雇いのような、 その日限りの労働者をやりながら、極貧の生活を

        していくわけですが、 この時期、 レーニンと直接話をしたり、演説を

        聞くに及び、 共産主義ボルシェビキという、 武力による社会革命

        の考えを持つようになっていった様です。


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         レーニン 曰く、「  革命とは、 現在の物や体制を破壊することであり、

         従来の物や体制を破壊することで、 新しい物や、体制が生まれる。」

         と、  こう 演説していたようです。



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         レーニンの 近くを出入りするようになり、レーニンも、 若い活動家

         ムッソリーニと会話して、 ずいぶん利用できる男と、評価していた

         ようです。

         そして、 レーニンが付き合っていた いろんな労働運動家と会う

         機会が増え、 ここで イタリア語だけでなく、 ドイツ語、フランス語

         を話せないと、 日常会話に困ることを痛感し、貧困の中、これらの

         言語を 勉強して ムッソリーニは、日常会話が出来るようになって

         行ったのです。



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         その後、 このイタリア語、ドイツ語、 フランス語を話せる様になった

         事は、 後の外交活動に多いにプラスになって行ったのです。


       【 明日に続く。】